京都ボヘミアン物語⑯恥かくために都大路を駆ける「マラソン」

  • URLをコピーしました!
目次

▽「街ブラ」番組をまねたマラソン企画

 寒くなるとひまになる。ひまになると妄想がふくらみ、「ミイラ男」のようなわけのわからぬイベントがうまれがちだ。
 12月にはもうひとつ大イベントがあった。
「ボヘマラソン」。1984年の第1期から86年の第3期まで3年連続で開催した。
 毎日放送(MBSテレビ)で1983年から86年まで放映された「夜はクネクネ」(略称「夜クネ」)というバラエティ番組が企画のヒントになった。
「猫ニャンニャンニャン、犬ワンワンワン、カエルもアヒルもガーガーガー」というギャグや「赤とんぼの唄」(あのねのね)で知られる原田伸郎と、アナウンサーの角淳一が、関西各地の夜の街をひたすらあるいて出会った人に「こんばんは~!」と突然声をかけて雑談をかわしてもりあげる、という内容だった。「街ブラ番組」「散歩番組」のはしりだった。


 ボヘミアンはこれに着想をえて、「いろいろな人と出会い、話し、人なつっこさを養い、恥をすてる」という目標をかかげ、あちこちにもうけたチェックポイント(関門)の課題をクリアして、京都の町をぐるりと20キロはしるというイベントにしたてた。
 京大から出発し、まずは高野中学の生徒に校長先生の名を顔面にかいてもらう。京都女子大ではキスマークをもらう、ことになっているけど、本物のキスマークはハードルがたかいから、マジックでかいてもらうのもよしとした。京都駅では外国人のサインをゲットし、四条河原町の阪急百貨店前の歩道で正座して弁当をたべる。新京極ではパンティーをかって領収書をうけとる。北野天満宮でおみくじをひいて巫女さんに結果をかいてもらう(3年分の関門が混在してるかも)……


 こうして数々の関門を突破して20キロを走破し、最後は女性に声をかけて賀茂川と高野川が合流して鴨川になる出町柳のデルタでふたりで記念撮影をしたらゴールだ。そのタイムをきそうわけだが、各関門で女子の電話番号をききだせたら「マイナス55分」のボーナス、関門をクリアできなければ「ひとつ前の関門までもどる」というペナルティがあった。
 元高校球児で、大文字キャンプの自己紹介でヘッドスライディングの話しかできなかった「筋肉男」のシオモトがタイムでは圧倒したが、関門をひとつとばしたため「伝説の海人」ヤマネと同着の1位となった。

 司法試験の勉強をあきらめて参加した教祖りょうさんがビリになり、鴨川の橋から「夕陽のバカヤロー!」とさけんだ。
 ぼくにとっては、道端で見も知らぬ女性に声をかけるなんてはじめての経験だったから緊張した。ある意味、これが人生初のナンパだった。
「自分の殻をやぶる」「人間性を解放する」という意味では、ちょっとは意味があったような気がする。

白菜シーチキン鍋よりうまい「ドッグフード鍋」

 この手の「恥かきイベント」は、マンネリ化をふせごうと年々エスカレートしがちだ。
 ボヘマラソンを3回やったあと、ボヘ第4期の1987年のイベントは「ボヘミアンフェスティバル」(ボヘフェス)と名づけて6月にひらいた。
 まずは「闇鍋」からはじまる。
 出町柳のデルタで、2班にわかれて巨大な鍋をつくる。ルールは、「人間がたべられる材料」「たべられる程度の味」にすること。そして、「完成した鍋はお互いにのこさずたべる』こと。
 ぼくらの班は正統派だった。あんこやバナナ、納豆、みかんの缶詰、トウガラシを餃子の皮につつんだものを煮こむワンタン風の鍋……のつもりが、皮がやぶれて色がまざって「ゲロ鍋」になってしまった。
 敵は見た目がトマトスープ風のカレー味でおいしそう。なかには、みたらし団子や麦茶パック、マシュマロ……。肉がはいっているのは豪華だが、よくみるとドッグフードだ。
「人間がたべられる素材ってルール違反や!」
 ぼくが抗議すると。
「フジャーの家の白菜鍋よりうまいし、栄養満点や。どっちがうまいかくってみ!」
 たべてみると、ドッグフードは塩分ひかえめのコンビーフのようでおいしい。
 それからしばらくはドッグフードを肉がわりにして下宿でもたべたが、そのうち、100グラムあたりの単価が人間さまの食料である鶏手羽先よりたかいことに気づいて、ばからしくなってドッグフード食はやめた。

黒人差別を知る前年の「土人踊り」

 闇鍋をたいらげると「マッドスライディング」だ。とはいっても鴨川には泥がない。
 ブルーシートに大量の古新聞をちぎって墨汁と水をかけ、真っ黒な「泥」をつくった。水泳の飛びこみの要領でシートの上をすべり、その距離をきそった。
 最後に、のこった墨汁を全身にぬって、カラーペインティングをほどこし、人食い人種の「土人」にふんして週末の繁華街をねりあるく。
 いまならこの企画は「黒人差別」のそしりをまぬがれないだろう。
 このころ、さまざまな社会問題の本もよんでいたはずなのに、ぼくらは「差別」とかんじていなかったのだろうか?
 小学生のとき夢中になってよんだ「ちびくろ・さんぼ」は、日本では1953年に岩波書店が出版し、国語の教科書にも掲載されていた。公民権運動をへたアメリカでは1970年代から人種差別の側面が指摘されはじめ、日本でも1988年に「ワシントンポスト」がデパートに展示された黒人のマネキンを批判した。渡辺美智雄政調会長(当時)が「黒人は破産してもケロケロケロ、アッケラカンのカーだ」と発言して大問題になった。大阪府堺市の市民団体「黒人差別をなくす会」が岩波書店などに「ちびくろ」の差別性について抗議し、岩波書店は1988年に「ちびくろ・さんぼ」を絶版とした。

 1960年に発売されて大ブームをひきおこした「だっこちゃん」人形も、黒人の子を模したことが問題になり、同じ1988年に製造を停止した。
 ぼくらが「土人踊り」をしたのはその前年だった。
 ちなみに「ちびくろ・さんぼ」は2005年に復刊。だっこちゃんは、厚い唇や縮れ毛といったデザインをあらためたうえで2001年、「だっこちゃん21」として復活している。

マクドの女店員は恐怖した

 われわれは四条河原町界隈の繁華街に突入する前、鴨川のほとりで輪になってすわり「部族会議」をひらき、2つのルールを確認した。

①繁華街では「ウッホ」というコトバしか発してはいけない。
②かならずファストフード店で買い物をする。

 それからひとりひとり、マクドナルドなどに入店する。
 先陣を切ったのは、「女ほしい」と体に大きくペイントしたシオモトだ。
 彼が店に足をふみいれると、店員の女の子はギョッと目をむいた。新人らしい女の子は裏ににげた。
 シオモトは、手元のメニューを無言で指さす。
「ハンバーガーでよろしいですか?」と店員さん。
 シオモトは大きくうなずいて、
「ウッホ↘」(アクセントは「ウ」)
「ごいっしょにポテトはいかがですか?」
 首をふって、アクセントを「ホ」において
「ウッホ↗」
 ひとりめのシオモトはおおいに気味悪がられたが、3人、4人とつづくと店の女の子もわらいはじめ、マクドの前には人だかりができ、失笑がひろがる。多少不気味な存在でも、なれれば笑いに転じるのだ。
 大阪のおっさんのギャグとにている。
 センスはないけど押しがつよいおっさんは、ギャグがすべって場がシラーッとしても、おなじギャグをくりかえす。また無視されてもみたび口にする。失笑がもれさえすれば、勝ち。
 関東出身のぼくは就職した当初、大阪出身のおじさん記者の「つまらんギャグ3連発攻撃」にうんざりしたが、ボヘマラソンなどで「気味悪がられる→あきれられる→笑いに転じる」という経験をしていたから、おやじ記者の連発ギャグは、周囲となじみたくてたまらないせつなさに根ざしたサバイバル技術なのだと寛容にうけとめることができた。

 マクドをでると、四条河原町の交差点のむこうから、10人ほどの男女の仮装集団がわたってくるのがみえた。これは親交をふかめなければならない。

 ウッホ! ウッホ! ウッホ!

 ぼくらが腕をふりあげて、彼女らにむかっていっせいにさけぶと、通行人がギョッとして、モーゼが海をわった「出エジプト記」さながらに、まわりの群衆はふたつにさけた。
 仮装集団は同志社大の「アドベンチャー」という名のサークルで、ホノルルマラソンや鳥人間コンテストに出場しているらしい。素っ裸に墨塗りという芸のないボヘミアンとはちがって、それぞれがうつくしくハロウィンの仮装のように着飾っていた。おなじアウトドア系でも金のかけかたがずいぶんちがう。いっしょに記念撮影をしてわかれた。というよりも、彼女らはひきつった顔であわててはなれていった。
 出町柳のデルタにかえりつくと鴨川の水で全身の墨汁をおとし、百万遍の銭湯「東山湯」にかけこんだ。川であらったとはいえ、洗い場にはけっこうな量の黒い水がながれたことだろう。でも文句のひとつもいわれなかった。
 さすが、学生街の銭湯やね。(つづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次