非ワープロ時代の切り貼り新聞
ボヘミアンはサバイバルや映画、演劇といった大きなイベントのたびに文集をつくってきた。新入生歓迎の勧誘パンフには1年の活動記録をまとめた。1986年は冊子ではつまらないからと巻物にしたら、見た目は斬新だけど、長さ10メートル25センチもあってよみにくくて往生した。
「ボヘノート」というノートは、みんなの雑記帳だ。ボヘハウス誕生後は「ボヘハウス日記」もできた。
さらに1986年10月には「放浪者(ボヘミアン)」という新聞を創刊した。初代編集長はシノミーだ。
すべて手書きの原稿を切り貼りしていた。
最初の日本語ワードプロセッサーは1978年に東芝が630万円で発売し、1985年ごろから5万円前後の機種が登場していた。ぼくは1989年に卒論をかくためにシャープの「書院」を5万円前後で入手したが、86年にはぼくらにはまだ高嶺の花だった。
ワープロの出荷台数は1989年にピークをむかえ、1999年にはパソコンとワープロの売上が逆転。2003年にはワープロ専用機の製造は終了する。寿命のみじかい商品だった。
1986年10月発行の「放浪者」創刊号は、司法試験の勉強のため引退するコージとツルの特集で、2人の言葉とほかの隊員からの「贈る言葉」をまとめた。
みんながおもいをつづる「言いたい放題」コーナー、セージのポルノ映画の連載、コヤマの麻雀連載などさまざまな記事があったが、いまよんで役だつのは「自炊は楽し」というタケダのレシピ程度だろう。「ナスとトマトのグラタン」「鰯のネギ巻き焼き」「肉詰めピーマン」といった本格派で、残念ながら当時のボヘミアンではだれもまねることはできなかった。
究極のもてない男は正露丸をあぶる
編集長シノミーは「助さんの股裸夢」というコラムを担当していた。
1987年1月、第6号の「今年のボヘの女運」についてのコラムは大反響をよんだ。
3回生のクマとヤマネ、絶望的▽2回生。コヤマは奈美ちゃん(島田奈美=現在は島田奈央子の名で音楽ライター)一本だし、シオモト・フジーは気合いが空回りしているだけで成果は望めない。セージはボヘのことで頭がいっぱい?だし、シモザキは必要がない。期待できるのはタケダ・ヒョメノの2人のみ▽1回生。派手にやってるチンバラはいいとして、悲惨なのはキャミー・ヒグチ・ヨシカワのトリオ。今年も長いトンネルがつづくだろう
「悲惨」と評された3人は3月発行の7号に抗議文をよせた。
「根も葉もないいいがかりである。われわれは堂々と表街道を闊歩する身である。……差別記事の削除及び謝罪文の掲載を強く要求する』(ヨシカワ)
「なぁーんだ、えっ? 放浪者のコラムは! くやしかったらオレより先に彼女つくってみ!」(ヒグチ)
「シノミーはぼくに対して非常な偏見を持っているということが判明した。ぼくのトンネルは、しかしながらもうすぐ終わろうとしている。見てろよ!」(キャミー)
1年後、シノミーの予想どおり3回生にはなにもおこらず、2回生はタケダとヒョメノとセージに彼女ができ(ぼくとシオモトはダメ)、「悲惨」とされた1回生3人は全滅だった。
なかでも100年たっても彼女ができそうにないのがヨシカワだった。合コンなどのであいの場をさけるくせに、「○○が女の子とデートをした」という情報をききつけるとその下宿を急襲し、ぐだぐだと非難し、ぐちり、部屋にある酒をのみほし、くだをまいた。ぼくにたいする彼の行動はとくにひどかった。
ぼくももてなかったが、3回生になるころには、たまには女性と喫茶店にいくこともあった。その話をききつけてぼくの下宿にきた彼は大荒れに荒れた。
「フジャー、うらぎったな。ぜったいゆるせん。どんな会話をしたか、最初から最後まですべてはなせ」
「どんな子でどこが魅力なんや。スタイルはどうなんや。どんな服を着ていたんや……」
どうせ話をきいたらさらにおこるくせに、ことこまかにききたがる。
どうやら彼は「フジャーは自分とおなじもてない仲間」と信じているらしい。ぼくもたしかにもてないけど、ヨシカワのもてなさとはレベルがちがう。
女の子とはたいした会話はしていないのだけど、せっかくだから話を創作した。
「短めの白いスカートが色っぽくてやぁ、フジーさんのこと、ずっとあこがれてたんです、ってかわいい声でいわれて、うれしかったなぁ。これから、つきあうかもしれんわ……」
あることないこと1時間ほどはなしつづけると、ヨシカワは、ぼくの「いいちこ」の一升瓶を空けてしまい、下宿の四畳半のなかを動物園のゴリラのように右に左にうろつき、「腹たつわぁ」「うらぎりやぁ」「最低やぁ」……といって、カラーボックスから正露丸をとりだしてスプーンの上にのせ、ライターであぶりはじめた。
いったいなにするんや!
あわててとめたけどおそかった。正露丸のにおいが部屋にもふとんにもこびりついて1カ月以上、においがぬけなかった。
ボディに穴が開き、床上浸水する車
社会人になってすこしたった1993年には、東京で芸能関係の仕事をしていたコヤマが「東京ボヘミアンスポーツ」を発刊した。94年8月の第4号ではホテルニューオータニでひらかれたヒョメノと京女出身のトモさんの披露宴の様子を克明にレポートしている。
ボヘミアンの4人が隔離された会場隅の「竹」のテーブルは異様な熱気に包まれており、ローソクも異常燃焼を起こしていた。来賓の祝辞がはじまると、恐れていたとおり「竹」のテーブルからはブーイングや歓声が沸き起こり、他の出席者の嘲笑を買っていたのであるが、山場はチンバラの祝辞であった。
「トモさん、どうして今あなたはヒョメノといっしょに高砂の席で、この私は竹の席なんでしょうか?」の質問に会場は爆笑の渦となった。
新郎の経歴紹介で、「新郎のヒョメノ君は京都大学法学部を優秀な成績で卒業し……」の部分で竹の席の当時のヒョメノの成績を知る者たちから強烈なブーイングが起こった。また、ケーキカットの時のナレーション「新郎新婦のはじめての共同作業です……」にふたたびブーイングが起こったが、どちらもおめでたい席ということもあり、うやむやのままそれ以上追及されることはなかった。危険人物を竹の席に隔離するというヒョメノの作戦勝ちであろう。
93年の創刊号では、当時のぼくの愛車がイラストつきで紹介されていた。職場の先輩から5万円でおしつけられたトヨタ・スプリンターは、はずれかけた前照灯をガムテープで固定しており、車体にいくつも穴があいていて雨がふると床上浸水した。だから梅雨になると、車内はすえたにおいになった。久しぶりに「ボヘスポ」をよんでおもいだした。車なんて、うごきゃいいんだよな。
こういうしょうもないエピソードを再現できるのも、ボヘミアンのうみだした数々のメディアのおかげなのである。
一方で、新聞「放浪者」も「ボヘノート」も、世間の大ニュースにはおどろくほど反応していない。1987年のニュースで「放浪者」や「ノート」がとりあげているのは「おニャン子クラブの解散」と森高千里の歌手デビューぐらいだったのではないか。
社会問題をまなぶ、といいながら、一般社会と隔絶されたごく小さな空間に生息していたことが、「放浪者」に「掲載されなかったもの」をとおしてよくわかるのだ。(つづく)