ドイツのベルリン国立ベルクグリューン美術館のコレクションをあつめた「ピカソとその時代」を見に行った。ほとんどの展示品が撮影可というのがすごい。
子どものころピカソは「へたくそ」の代名詞だった。「うわー、なにこれ、ピカソの絵みたい!」とへたな絵をばかにしたものだ。理解不能だし、顔や体がよじれまくった
絵のなにがよいのかわからなかった。
すくなくとも大学時代までは抽象画はきらいだった。
はじめて抽象画がおもしろいと思ったのは、就職直後、当時好きだった子にすすめられて、静岡県富士宮市あたりの美術館でパウル・クレーの作品を見た時だった。バックが黒くて、黒い縁取りの人物がうきあがっているようで、写実的な絵にはないすごみをかんじた。
たぶんそれから、ピカソなども見るようになったのだろう。
正面からの目と鼻。斜めからの目と鼻をくみあわせた人物像は、純粋さと冷酷さ、熱情と冷笑……といった、ひとりの人物のなかに同居する矛盾した内面がにじみでている。
戦争中、ナチス占領下のパリではなかば軟禁状態だった。どす黒いロボットのような「横たわる女」はがんじがらめの状況を象徴し「死」をかんじさせる。
表情や動き、体の部位をバラバラにして再構成することで「命」の複雑さや多面性を表現する。ちなみに抽象画以前のフェルメールは独特の光の表現で心や時代のありようまで表現していた。その美しさは高校時代でも理解できた。
タイトルを忘れたが、構造主義哲学の本を読んで、以下のような文章を書いたことがある。1999年ごろのメモだ。
ーー遠近法は、ひとりの視点(主体)から見た世界を忠実に表現する方法であり、「射影幾何学」は視点があちこち動き回る(主体のちがいが無視される)ことで「構造」を浮かびあがる。さらに、位相幾何学の段階になると、要素の連結関係だけが重要で、AーB−Cとつながっていさえすればゴムのようにゆがませても「同じ形」と認識される。直線もなにもなくなるから、ピカソの絵のように、正面と横顔と、複数の視点からの像をひとつの画面に統合してもよいことになる。遠近法は伝統的な哲学であり、射影幾何学や位相幾何学やピカソの絵は「構造主義」であるーー
構造主義に興味をもちはじめるのとほぼ同時に、抽象画にも興味をもつようになったようだ。
でも、記憶も知識もいいかげんなもので、あれほど好きだったクレーの作品のイメージは「黒」と思っていたが、今回見た作品は、タイルをならべて光を表現したり、直線だけで表現したり……はるかに多様だった。
切り絵の印象が強かったマティスは黒い線だけの絵も描いており、禅画のようだった。
ピカソ、クレー、マティス、ジャコメッティと、現代アートの巨人の作品をならべられると、作家によって、年齢によって、時代によって、抽象化といってもさまざまな技法や方向性があるんだなぁと勉強になった。