「真宗移民」の歴史から何を学ぶか 報徳仕法の原動力にもなった宗教移民の研究を眺望する<太田浩史>

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■20230426
 福島第一原発事故の取材で訪れた南相馬市は、外の人も受け入れる気さくな人が多かった。昔から外からの人をうけいれてきたからだという。
 江戸末期には間引きなどによる人口減少で荒廃していたムラを、北陸や新潟からの「真宗移民」が再生させた歴史があった。「真宗移民」を知りたくて本を入手した。

 移民は最初は北関東、その後、福島の太平洋岸に入植した。加賀藩は移民を禁じていたから「逃散」だった。
 当時の東北地方は、堕胎や間引きが盛んだった。
 速水融の「歴史人口学」によると、陸奥の村では、女子の初婚年齢が12歳前後なのに出生率が異常に低かった。子どもの数を少なく、性別のバランスをとろうとする「間引き」がその原因だった。成人まで生き延びることが期待される子の数は3人であり、「最初に娘、つづいて2人の息子」が理想とされた。近世農民は小さな耕地での営農に適した家族構成をとる必要があったからだ。間引きは、「生産年齢人口比率」を安定させるための「合理的行動」だが、その結果、人口は減少する。年貢をおさめる百姓が減れば、ひとりあたりの年貢負担が重くなり、百姓の逃亡があいつぎ、さらに人口減少が加速する。
 逆に、堕胎や間引きの文化がない北陸などでは人口増で零細農民が増加していた。
 北陸側にとっては窮迫農民の逃散であり、関東側から見れば人口減少をカバーする意味があった。浄土真宗寺院が移民を斡旋することで、鎌倉時代の真宗教団の衰退とともに関東に絶えていた浄土真宗の信仰が復興した。現在も、北関東の真宗寺院をささえる檀信徒の多くが北陸移民の子孫だという。

 1846年までの人口は西日本で増加率が高く東日本で低いが、明治には「東高西低」に逆転する。
 19世紀初頭にはじまる北陸・出羽の人口増加は、西廻り海運という日本海側の輸送路が原因と思われる。1860年代にはじまる東東北の南部などの人口増加は、横浜開港により世界市場とつながったのが要因という説があるが、筆者は異説をとる。
 天保の飢饉で疲弊した関東・東北の農村を復興する思想が二宮尊徳の報徳仕法だった。二宮が仕法を実施した北関東の地域は寛政年間以来、真宗移民がはいった場所だった。福島の相馬中村藩はとくに熱心に報徳仕法にとりくんだ。
 報徳仕法とは、徹底した調査にもとづく相互扶助による経済復興策であり、共同体内の農民の団結と教化に有効だった。人口増加地域である東東北の南部や下野・上野などは、真宗移民と、二宮尊徳の報徳仕法がおこなわれた地域だった。
 「弥陀に呼びかけられて弥陀と一体の自己に気づき、弥陀に全的に服従し、一方でその主体性において自由自在に生きた」妙好人(浄土真宗の在俗の篤信者)による近代化が、真宗移民と報徳仕法が重なった地域で成立し、「主体的に」間引きを根絶し、勤勉や団結によってプロテスタンティズム的資本主義にも似た経済発展をもたらした。産業革命の先駆だった。真宗門徒が勤勉や団結力を発揮したのは、豪雪地帯としての特性や発達した講組織における横の連帯が寄与していたという。
「事実としてあった明治日本という近代ではなくて、明治時代によって挫折させられた、あったかもしれない近代」すなわち「妙好人的近代」が人口増大をもたらした、と筆者は主張する。まさに、経済発展が「少子化」を防いでいたのだ。

 相馬は人情があたたかい地域だが、真宗移民は地元民から差別された。相馬は土葬地帯だったが真宗移民が火葬をもちこむなど、「門徒もの知らず」という慣習のちがいが原因だった。北関東では「加賀っぽ、越後っぽ」、相馬では「加賀者が加賀泣きしている」と蔑まれる。旧加賀藩領からの真宗移民は「故国で罪を犯して逃げてきた者達」と噂された。多くの真宗移民が、自分達が「新百姓」の子孫で真宗門徒であることを表にだしたがらないという状況も生まれた。

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