日本一サメやメカジキがあがる魚市場
JR気仙沼駅から徒歩15分ほどの中心街「魚町」は、ちらほらと居酒屋がある程度だが、海沿いの堤防上にはおしゃれなカフェやFMラジオの放送局がならんでいる。
漁港は、近海の小型漁船から遠洋に行く大型漁船までずらりとならぶ。カツオ・サンマ・メカジキ・サメが有名で、脂がのった白い身が特徴のメカジキは全国の水揚げの8割、サメは9割を占めるという。
サメ、というのはめずらしい。フカヒレやすり身のカマボコなど、サメを原料とする水産加工業がさかんだから、サメを積極的にうけいれる漁港として発展したらしい。
午前8時、魚市場見学に行くと、「まだカツオはやいし、メカジキもないし、小魚だけかな」と警備員さん。
魚市場の2階がテラスになっていて、そこから競りの様子を見学できる。
ブリやイワシ、アンコウ……水族館みたい。漁船からコンベアで水揚げされる小魚はアジだろうか。
奥深いリアス式海岸の湾を展望
ドキュメンタリー映画「ただいま、つなかん」はとんでもない悲劇をえがきながらどこか救いをかんじられた。唐桑半島の鮪立という漁村にある民宿「唐桑御殿つなかん」がその舞台だ。予約をとれなかったから、せめて自分の目で見ようと思った。
鮪立への途中、気仙沼港のわきの山の上にある安波山公園にたちよった。
標高239メートルの展望台からは、気仙沼の深い深い湾を一望できる。湾の一番奥に漁港がある。ふだんなら荒波にさらされない天然の良港だが、津波は陸地がせばまる湾奥に集中して巨大化した。魚市場の2階のまんなかあたりに「津波浸水深ここまで」と記されていた。
公園の碑には、亡くなった市民の名前と年齢がきざまれた札がならんでいる。
手押し車のおじさんが声をかけてきた。
「こんなところより徳仙丈のツツジが満開ですばらしいから、だまされたと思って行ってみ」
東北弁でまくしたてる。
日本一のツツジの名所
「つなかん」を訪ねて、映画の主人公の女将さんにあえたとしても、「すばらしい映画をありがとうございました」とお礼するぐらいしか思いつかない。泊まり客以外が訪ねてもじゃまだろうから、おじいさんの言葉にしたがってツツジの山に目的地を変更した。
30分ほど山道を走ると徳仙丈山への登山口に着く。そこから標高711メートルの山頂をめざし、ツツジの真っ赤な花のトンネルを歩く。50ヘクタールの山にヤマツツジとレンゲツツジが50万本自生し「日本一のツツジの名所」とよばれている。
駐車場から10分ほどの第1展望台周辺からながめると、ツツジの花が赤い絨毯のようにひろがり、そのむこうに気仙沼湾と太平洋の青い海がきらめいている。
なぜこの場所にこれだけのツツジが増えたのか。
徳仙丈山には1950年まで「徳仙鉱山」という銅鉱山があり、鉱山での火入れや山火事で燃えたあとは萱刈場や牧草地として利用されていた。
もともと山林の下草としてヤマツツジが自生していた。その美しさに気づいた気仙沼の佐々木梅吉と本吉町の須藤隆らが1976年ごろから下草やツツジにからまるツタを刈る活動をはじめたことが、ツツジの名所になるきっかけだったという。
津波の教訓 正常性バイアス克服には避難訓練
いったん気仙沼の市街にもどり、リアス式海岸独特の山をなんども上り下りして北にむかう。上下するたびに「ここから過去の浸水域」といった標識が掲示されている。
40分ほどで汽仙川をわたると、現代アートのような巨大建築が見えてきた。「道の駅高田松原」と「津波伝承館」だ。
道の駅で海鮮丼とそばのセット(1300円)をたべたあと、伝承館(無料)を見学する。
リアス式海岸の湾のせまくなったところに津波が集中して海底をえぐり、土砂をふくむ黒い波になった。土砂をふくむことで破壊力が強化された。高田松原の延長2キロ7万本の松をなぎたおし、5.5メートルの防潮堤をのりこえ、気仙川の河口の気仙大橋と上流の姉歯橋をのみこんだ。
一方、宮古市の姉吉地区は「此処の下に家をたてるな」という昭和の津波の際の碑があり、それをまもったため被害をまぬがれた。
裏山への避難階段をつくり、年3回避難訓練をすることで、住民の命がまもられた集落がある反面、「3階にのぼればたすかる」と思いこんだり、「家族をすくうため」と家にもどった人が犠牲になった。「正常性バイアス」のおそろしさを強調し、日ごろからの訓練や「津波てんでんこ」の大切さを表現している。
伝承館から海側を見ると、新たな巨大な堤防が屏風のようにそびえている。堤防にのぼると海側は、松原を再生するため、松の幼木が整然と植えられている。気仙川の河口には可動堰がもうけられた。
その可動堰のちかくに「奇跡の一本松」がある。アカマツとクロマツの交雑種で高さ27.5メートル、直径90㎝、樹齢173年だった。2012年に枯死したが、心棒をいれてモニュメントとしてのこした。
7万本の松が全滅したのに、1本だけたすかったのは、海側の陸前高田YHによって波がはばまれたからだという。昔の写真を見ると、YHはうっそうとした松林にかこまれていた。そんな森が一瞬にして消えてしまった。
映像だけではわからない。現場に身をおいてはじめて実感できることがあるのだ。
津波にあらわれた海沿いの平地から、役所も商店も住宅も、山側の高台にうつされた。
国・県・市町村の垂直系統は機能せず、横のつながりで対応
陸前高田からは内陸にむかい、遠野市の「東日本大震災後方支援資料館」をたずねた。
だだっ広い運動公園のわきに消防署があり、そのかたすみに平屋建ての資料館がたっている。
遠野は江戸時代から海辺の暮らしを流通面でささえる役割を果たし、震災以前から台災害時の支援拠点にする構想がもちあがっていた。広大な運動公園があり、活断層がほとんどないという強みを生かすものだった。
震災時、町役場の建物はこわれたが、テントに災害対策本部をつくり、議会もテントでひらいた。当初の構想どおり、運動公園に物資が集中し、それを仕分けし、海岸部におくりだす。被災者が必要なものをえらべる無料スーパー的なしくみもつくった。
−−−「国ー県−市町村」という垂直の関係ではなく、市町村の水平の連携の有効性が確認された−−−。
そんな説明に納得する。福島の原発事故でも、国−県−町という垂直ラインは機能せず、浜通りの市町は、市町村同士の横のつながりで避難先を確保した。
災害対応もエネルギーも「中央集権」は脆弱であることが震災であきらかになった。