地蔵祭りも寒修行も消え、寺は無住に
鏡のように新緑の木々をうつす富山湾の、ひときわ深く切れこんだ入り江沿いにひろがる穴水町の曽良地区は、深い湾と水路の風景から「東洋のベニス」と評されたこともある。海沿いの高台にある集落唯一の寺・千手院は樹齢700年のシイノキがそびえている。年間50日ほど、海のむこうに立山連峰がうかぶ景勝地だ。
住職の谷大観さん(59歳)=穴水町議会事務局長の=はこの寺に生まれた。千手院の檀家は集落の60軒のうち13軒だけ。これでは食べていけないから、父の時代に地区外の2カ寺の住職も兼ねることになった。
江戸時代、曽良は天領で、深い入り江を北前舟が風待ちに利用した。豊かなためか、農閑期も出稼ぎにでる人が少なく、年間をとおして祭りや伝統行事がさかんだった。
8月23日の地蔵祭りは、千手院の住職が地区内の約10体の地蔵をめぐって祈祷する神仏混合の奇祭だ。榊をのせた六角形の輿(こし)と数本のキリコが夜中まで練り歩いた。
1月の「子ども寒修行」は、「口減らし」で奉公にでる前の子をきたえる意味があった。
12歳の男子が白装束に菅笠をかぶり、「南無大師観世音」ととなえながら2週間(後に四日間)、集落の全戸をまわって托鉢した。米や餅、ミカンや小銭などをあつめて寺にもちかえると、ぜんざいや餅をふるまわれた。
「私のころは6年生の男子が9人いて寒修行を楽しんだ。大人になる前に村の隅々まで知るという意味もあったのかもしれません」
子どもが減って4、5年生や女子も参加するようになったが、2000年を最後に寒修行はなくなる。地蔵祭りも高齢化でキリコをだせなくなり、山車をひいた春祭りも08年が最後になった。
谷さんは1994年、住まいを14キロはなれた中居地区の地福院にうつした。妻が地福院の本尊の弥勒菩薩の夢を見たのがきっかけだった。
「曽良を捨てていくがか」
「1軒しかない寺だから(檀徒じゃなくても)協力してやってるがに!」
住民からは悲鳴があがった。
「昔は兜村の役場や病院もあった。それらがすべてなくなり、寺まで無住になることへの危機感が大きかったのです」
区長になるのは「おやっさま」
曽良ではかつて網元や地主など計18軒が「おやっさま」とよばれた。なかでも中世以来の土豪・細木家は、江戸時代には集落の石高の3分の1を占める大地主だった。大正から昭和初期にかけては当主が県議をつとめた。
わずか数年前まではこの18軒だけで区長職をまわした。だが「おやっさま」も高齢化で数が減り、細木家の本家も空家になった。
「封建的なところでオレみたいな水呑百姓出身が区長になるなんて昔は考えられんかった」
2010年に区長になった滝谷芳朗さん(64歳)はふりかえる。
縄文焼で「盆灯」祭り
新出良一さん(72歳)は旧能都町役場で「世界一の縄文土器」づくりなどを手がけた。空き寺になっていた千手院で2008年から「縄文焼」の制作をはじめた。
09年8月、縄文焼や竹のランプシェード計500灯を本堂や境内にならべる「盆灯」を催した。翌年は1000灯に。11年には集落全体の行事になり5000灯に。12年は7500灯に増え、集落人口の10倍の1500人がおとずれた。
今年(13年)は1万灯に増やすため、5月の大型連休明けから、ロウソクをともすカップ洗いや竹の伐採などの準備をはじめている。
曽良では盆の夜、墓に行灯(あんどん)を飾る伝統があるが、その数は年々減っていた。「盆灯」という新たな祭りによって集落全体に明かりが広がることになった。
「みんな年とってあきらめていた感じやったけど、盆灯をやるがになって『在所のために』って、やる気満々になってきた。カップ洗いから土器づくりまで、腰の曲がったばあちゃんも楽しみにしてるがいね」
滝谷区長は笑った。
正月料理の「かぶらずし」商品化
曽良には「かぶらずし」という食べ物がある。カブに塩サバをはさんでこうじ漬けにしたかぶらずしは、カブの甘みと酸味、サバのうま味が絶妙で、穴水町を代表する特産品となっている。
つくっているのは「曽良かぶら生産組合」の女性たち。はじまりは30年前にさかのぼる。
1983年、40代から60代の女性4人が冬場の仕事づくりをかんがえた。曽良では昔、地元のカブでかぶらずしを漬け、正月の酒のさかなにした。それを再現することにした。
つかわれていない蔵に天井を張って即席の加工場とし、3年間無償ではたらいて道具をそろえた。
すしの大きさをそろえるため、直径9センチの金属の型で、大きなカブのやわらかい部分だけを打ちぬく。型は、縫製工場をいとなんでいた坂下昇さん(78歳)が縫製の「型抜き」を参考にして鉄工所につくってもらった。高圧の空気でカブを一瞬で切断する機械も試作したが「年寄りにはこんなおそろしいもんつかえん」と女性らに拒まれた。
曽良のかぶらずしは添加物をいっさいつかわない。当初は農協などからカブを仕入れていたが、組合で6反(60アール)の畑をおこし、ひと冬で約3万個使うカブの9割を自給できるようになった。サバも06年ごろ、北欧産から能登産にきりかえた。塩は珠洲産だ。文字どおり、能登の里山里海を代表する味となった。
いま組合には7人が所属し、エプロン姿でおしゃべりを楽しみながら作業する。かぶらずしの稼ぎで軽自動車を買った人もいる。
「年とっても在所のなかではたらいて小遣いをかせげる。孫にお年玉もやれるし、お父さん(夫)に相談しなくても町にごちそうを食べにいける。組合があるから女の人が元気なのかも」
組合代表の室木律子さん(58歳)さんは話す。
「学校食堂」開設へ「地域の宝」さがし
かぶらずしは穴水を代表する特産品に育ったが、仕事があるのは秋と冬だけだ。雇用につなげるには通年の仕事がほしい。
曽良など3地区の子が通う兜小学校は08年に閉校となった。築10年の校舎は、卓球や音楽のグループがたまにつかう程度だ。室木さんは隣の甲(かぶと)地区の女性に地元の産物をつかった食堂づくりを提案した。
甲地区では、のと鉄道の穴水~ 蛸島間が05年に廃止され、甲駅という住民が顔をあわせる場が失われた。小学校の閉校で校区内3地区の住民がつどうのは運動会だけ。校区のつきあいがうすれ、3地区合同だった敬老会もばらばらにひらくようになった。
「駅も学校も、人々がであって活力を生む場所だったことに、失ってはじめて気づきました」と甲地区に住む泊ひろ子さん(64)。
室木さんや泊さんら、曽良と甲の女性6人は、「かあさんの学校食堂」の2013年秋のオープンをめざし、山菜の天ぷらやサヨリのフライ、タコ飯……などの試作をくりかえしている。
そんななかで地域を見る目も変化してきた。
「何か山菜がないか足元を見ながら歩くようになった」
「自然の豊かさを生かした散策コースとかお弁当とか、在所の資源を生かしたいと思いはじめた」
「地域の宝」に目が向くようになったという。
「元気に活動して年をとってもかがやいていたい。うまくいったら『人生の楽園』(第二の人生を楽しむ人を紹介するテレビ番組)みたいになるかな」
6人は夢見ている。
かぶらずしも「盆灯」もとだえた
能登半島地震から40日後の2024年2月11日、曽良をたずねたが、集落には人影がみえない。兜小学校の前に、自衛隊の車両がとまっていた。曽良や甲地区の住民の避難所になっているのだ。
この避難所で「かぶらずし」の室木律子さんと再会できた。
曽良に活気をもたらした「盆灯」は、縄文ランプシェードづくりを指導した新出良一さんが2017年に亡くなり、1年か2年後にとだえてしまった。かぶらずしもメンバーの高齢化で人手不足になり3年前にやめた。北陸にはブリをつかう「かぶらずし」が各地にあるが、曽良のサバのかぶらずしが一番好きだっただけに残念だ。
2013年からはじまった「かあさんの学校食堂」は、コロナで観光客がこなくなると地元住民むけの弁当をつくってきたが、今年2024年3月に終了する予定だった。
地震当日から炊き出し
元日の地震後、曽良地区や甲地区の住民350人が旧兜小学校に避難してきた。穴水町では最大の避難所だった。
学校食堂をしていたから、大型炊飯器や鍋、食器がそろっている。室木さんは自宅に保存していたコメ1斗(15キロ)をもってきて、学校食堂のメンバーら計12人で、地震直後の元日の夕食からおにぎりを炊き出しした。自衛隊やボランティアが到着する9日まで、みながもちよった米や野菜で、みそ汁やカレーなどをつくりつづけた。
甲地区の「穴水町消防団甲分団」は2022年の「全国消防操法大会」のポンプ車部門で準優勝した。その消防団員も避難所で活躍した。
消防用の小さなタンクで、1日7、8回も川から水をくみ、学校の水タンクにはこんできた。水道の断水でトイレがつかえない避難所が続出したが、ここでは水洗トイレも洗濯機も機能しつづけた。
自宅は水がつかえないため、2月11日現在80人ほどが体育館で宿泊している。住民が寝る場所には畳がしかれている。体育館は金沢星稜大学の地域活動の拠点だったため、畳を常備していたのだ。
「学校食堂の経験が生きて、地域に恩返しにできてよかったです。10年間やっていた意味はこれだったんだと思いました。消防団も、避難所を運営してくれた人たちも、在所の力は本当にすごいなと思いました」
室木さんはそうふりかえった。
学校食堂のDNAは次世代へ
地震から半年後の7月半ばに再訪すると、学校食堂は解散していたが、メンバーだった東井由美さんら8人が隣の甲地区で「甲みらい」というグループをたちあげていた。
さらに東井さんの次男で、埼玉県在住の孝允(たかみつ)さん(41)ら兜小学校の卒業生ら23人が「穴水町甲復興団」を結成した。
孝允さんは正月、帰省していて地震にあい、兜小学校の体育館で2泊した。「学校食堂」の母たちや消防団が人々の生活をささえていた。
避難所が3月10日に解散すると、住民は自宅や仮設住宅にこもってしまう。高齢者のおしゃべりの場だった2軒の商店は閉じてしまった。
住民がつどう場をつくろうと、孝允さんはLINEで小学校出身者のグループをつくってよびかけた。グループには30〜50代の23人が参加し、甲公民館で月2回、100円でおやつとコーヒーをだす「カフェ」をひらいている。毎回約100人が利用している。
金沢にすむ加田和江さん(42)も正月に実家で被災した。母は「学校食堂」のメンバーだ。母たちの避難所での活躍をみて、「自分たちもなにかせんならん」と、復興団に参加した。
「ここにくると、小学校の友だちにあえるし、なつかしいおっちゃんやおばちゃんにもあえる。同窓会みたいです」
「避難所では学校食堂の母さんたちがお世話してくれて、いまは若い人たちがみんながあつまるように工夫してくれている。地震のときは心がすさんでいたが、若い人のおかげですこしずつ明るくなってきました」
甲区長の熊野信一さん(74)は若者たちに感謝する。
盆灯ふたたび
一方、曽良地区は50世帯のうち、5軒しか跡取りがいない。「盆灯」の拠点だった千手院は管理する人もなく、地震前から床の一部がくさり、檀家もいなくなっていた。
穴水町でガソリンスタンドを経営する森本敬一さん(54)は地震前の2023年10月、能登半島の弘法大師にかかわる場所をむすぶ観光プランをつくるため七尾市の寺院のイベントに参加した。
「けいちゃんじゃない?」
受付をしていた女性に声をかけられた。小学校の同級生の北原密蓮さんだった。真言宗の僧侶になっていた。
能登半島地震後、その北原さんが千手院の住職に就任することになった。
千手院は、海のむこうに立山連峰をのぞむ景勝地にある。
「うちが管理するから活用させてくれない?」
森本さんがたのむと北原さんは快諾した。
森本さんと母、ガソリンスタンドの社員の計5人が千手院の檀家になった。
地震で多くの人が亡くなり、ふつうの観光は考えられない。祈りや写経を体験し、ボランティアに参加して地元の料理をあじわう「復興ツーリズム」の拠点にしたいという。
ボランティアとともに本堂や庫裏の掃除をしていると、カップ酒の瓶やろうそくがどっさりでてきた。「盆灯」でつかっていたものだった。
2024年8月14日、千手院をろうそくでいろどり、スカイランタンを空中にうかべる「復興の灯」をもよおした。
十数年前に新出良一さんが曽良の人々の心に火をともしたように、ヨソモノとの縁によって曽良はふたたびよみがえるのかもしれない。
曽良地区 1880年の町村制施行で兜村の一部に。兜村は1954年の合併で穴水町になった。70年には88世帯334人だったが、2013年3月は61世帯134人。高齢化率58%。2020年は50世帯106人。海中から湧きでた銭が岩となったという伝説がある善塚(銭塚)は立山連峰をのぞむ景勝地。