鏡のような海にカキ養殖の筏が浮かぶ中居湾(穴水町)をながめながら、高台の「さとりの道」を歩くと、わずか1キロほどの道沿いに9つの寺社があらわれた。海沿いの中居の集落には重厚な土蔵がいくつもならぶ。わずかな農地しかない集落に、多くの寺社と蔵をたてる経済力をもたらした背景には、江戸時代の塩づくりがあったという。
塩づくりささえた鋳物産業
中居はかつて鋳物の町としてさかえた。砂鉄や粘土などの原料や、マツやクリの木などの燃料、さらに天然の良港があったからだ。江戸時代は、塩田で海水を煮つめる塩釜を製造し、能登一円の製塩業者に最盛期は2000枚の釜を貸しだした。原料の鉄がたりず、たたら製鉄の先進地である出雲や石見(島根県)から銑鉄をとりよせていた。
武器弾薬や塩も鋳物なしになりたたないため、鋳物師は農民よりも位が高いとみられた。かごにのることをみとめられ、馬も優先的に借りることができた。ただし世襲ではなかった。
だが、加賀藩の庇護下で技術革新をおこたったため、薄くて安価で燃料効率がよい高岡(富山県)などの鋳物に押されて明治になると衰退する。最盛期13軒あった吹屋(鋳造作業所)は、1924(大正13)年、梵鐘の鋳造を最後に姿を消した。
左官で繁栄、集落には「女郎屋」
職人たちは粘土で鋳物の型をつくる技術を生かして左官に転じた。
ゴムひも工場を営む吉田幸治さん(79)の父は戦前、東京駅や赤坂離宮(迎賓館)の建設にたずさわった。中居の左官は、全国の左官業組合の要職を占めた。吉田さんがそだった東京・巣鴨の家には職人十数人が住みこみ、玄関前には十数台の自転車がならんでいた。小学校には「女中さん」が送迎してくれた。
「弟子が全国で親方してるんだから義理の悪いことするな。もう左官の時代じゃない。サラリーマンになれ」
父にそう言われ、吉田さん自身は銀行に就職した。全国で左官の仕事をする親類から預金を集めて営業成績は抜群だった。中居の町の一角には10軒ほどの「女郎屋」が軒をつらね、夜になると三味線の音がひびいていた。
高度経済成長期、男の子の大半は左官に弟子入りした。
漁業を営む松村政揮さん(65)は兄弟5人全員が左官になった。65年ごろ、大卒の初任給の3倍の月収があり、大阪万博の工事では1日5、6万円かせいだ。セメントで汚れた作業服のまま、30万円の札束を腹巻におさめてキタやミナミの繁華街で遊び歩いた。かやぶき民家ばかりだった集落は、左官の稼ぎによって昭和30年ごろから一気に瓦葺きの屋敷ににたてかえられた。
能登中居鋳物保存会の小泉正敏会長(68)は64年に郵便局に就職した。同級生同士であつまると、左官の友人の金払いは抜群で「月給取りになるなんて!」とバカにされた。
造り酒屋も「売り家」に
新建材の普及で左官業は80年ごろから下り坂になる。左官に弟子入りさせるかわりに、子どもを大学に進学させるようになり、卒業後は地元に帰らなくなった。1960年に260世帯1200人だった中居の人口は、2012年9月には169世帯425人に減った。
いま、集落は空家がめだち、豪壮な蔵をいくつももつ造り酒屋も売りにだされている。それでも豊かな時代の名残で、今でも生け花や囲碁、茶を楽しむ人が多いという。
「穴水は観光スポットがないと言われるが、中居には素材が多い。鋳物専門の資料館は全国唯一ではないか。鋳物の体験コーナーをもうけるなど、魅力を発信していきたい」と小泉さんは話す。
土蔵は更地、豪壮な屋敷群に被害
取材から7年後2019年、中居をたずねると、「売り家」になっていた造り酒屋のあざやかな黄土色の土蔵が消えて更地になっている。
さらに能登半島地震後の2024年3月に再訪すると、いくつかの屋敷はつぶれ、健在のようにみえる家屋にも「危険」としるされた応急危険度判定の赤紙がはられている。
「さとりの道」の地福院などの塀がたおれ、道も途中で崩落していた。
昭和30年代、左官でさかえたころにたてられた立派な家々は築60年をすぎ、地震の被害をこうむったようだ。独特の町並みは今後消えていってしまうのだろうか。