輪島市街から20キロ、能登半島の先端にむかった輪島市町野町の曽々木海岸は、板状の岩に直径2メートルの穴があいた奇岩「窓岩」で知られている。
曽々木は、能登で一番大きな河川である町野川の河口にあたり、かつて大きな潟湖があり、昭和のはじめまではたくさんの船が出入りしていた。
町野川を数百メートルさかのぼると、時国家(下時国家)、さらに300メートル上流に上時国家がある。
下時国家は間口24.2メートル、奥行き14.7メートルで、敷地内に安徳天皇をまつった社がある。 上時国家は間口29.1メートル、奥行き18.1メートル。いずれも江戸末期にたてられ、国の重要文化財に指定されている。
大庄屋が「水呑百姓」から借金
全国の漁村の古文書を収集し、文書館・資料館をつくるという国の事業が1949年にはじまる。東海区水産研究所の月島分室が担当し、日本常民文化研究所に委託した。民俗学者の宮本常一らが時国家の古文書を借りていったが、1954年度で水産庁は予算を打ち切り、100万点を超す文書が借用されたまま、研究員は四散してしまった。「能登に古文書がないのは上杉謙信と常民文化(水産庁)が古文書をみなもっていってしまったからだ」とまで言われるようになっていた。
網野は古文書を返却するため1980年に神奈川大にうつり、常民文化研究所は1982年に神奈川大に招致された。それ以来、網野善彦は文書を返却するために全国をまわった。その過程で網野は1984年に時国家にやってきた。
時国家では襖をはりかえるとき、以前の襖紙を保存していた。網野はそれに注目する。
蔵などに保存されている公的な文書史料は、「百姓=農民」という考え方にもとづき、年貢の額などが記録されているが、農民以外、とくにあちこちをわたり歩く人びとの史料はほとんどない。
公的な文書史料によると、1735年には奥能登最大の都市輪島(河井町村・鳳至町村)の621軒のうち71%の438軒は頭振(あたまふり)だった。第2の都市の宇出津村も433軒のうち頭振329軒で76%を占めた。頭振とは、金沢藩領の無高の農民を意味し「水呑百姓」と同様、一種の蔑称だった。
ところが、上時国家などにのこされた襖紙文書には、大庄屋である時国家が、貧乏人であるはずの「頭振」の柴草屋から借金をしていたことがしるされていた。実は柴草屋は、廻船交易にたずさわる「海商」だった。
輪島は当時、漆器やソーメンの産地としてにぎわっていた。そんな町の7割が頭振なのは、輪島塗やソーメン、廻船業など非農業的な生業が隆盛をほこり、田畑を所有する必要がなかったからだった。輪島の年貢の税率が88%という記録があるが、「われわれは別の方面でもうけるから、それでいいですよ」ということだった。
そして時国家は昔ながらの封建的大庄屋ではなく、北前船(廻船業)や炭焼き、塩田、鉱山、金融業などをいとなむ総合商社のような存在だった。上時国家は北前船を4隻所有し、その船がサハリンまで行っていたことも別の家(金蔵の井池家)の襖下張文書であきらかになった。
こうした発見から網野は、「百姓」とは農民だけではないことを確認し、弥生時代以来、「農業社会」と考えられていたのは誤りで、コメの石高で豊かさをしめす固定観念を否定し、江戸時代の社会はかなり高度な「経済社会」だったことをあきらかにしていった。
ぼくは大学時代から、従来の歴史観を一変させる網野史学にみせられてきたから、2011年5月に朝日新聞輪島支局に赴任するとまっさきに時国家をたずねた。
2011年5月、町野川流域の田んぼでは草刈り機の音がひびいていた。「本家上時国家」という案内にみちびかれて駐車場にはいり、石段をのぼると、巨大な茅葺き屋根がそそりたっていた。高さ18メートルの屋根は15〜18年に一度ふきかえている。江戸末期に28年かけて建設されたという。
入館料520円をはらって建物にはいるとひんやりする。
大納言しか足を踏み入れてはいけないという「大納言の間」、蜃気楼を掘ったという欄間、土間の梁につられた4つの籠。北前船の船帆や船箪笥もある。
「(上時国家のことを)カミサマといって、私らは恐れ多くてはいったことがなかった。でも昔の年寄りはみんなこの屋敷ではたらいとった」
近所にすむおばあさんは解説してくれた。
祖先は平家の落人
時国家は、平清盛(1118〜81)の妻・時子の弟で「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を残した平時忠(1130?~89)の子孫だとつたえられている。
時忠は1185年の壇ノ浦の合戦後にとらえられ、能登半島の珠洲にながされた。珠洲市大谷の山中の則貞地区には、時忠とその子孫の墓所という五輪塔がならんでいる。則貞家など大谷十二家とよばれる人たちがこの場所を整備してきた。彼らは時忠とそれにしたがってきた家来の末裔と称している。
時忠の子の時国が町野川の下流域にでてきて「時国家」ができたとされるが、則貞地区で会ったおじいさんは「自分のとここそ平家の子孫。時国が時忠の子孫という証拠はない」と断言していた。
いずれにせよ源平時代の記録はないのだ。
本家と分家
下時国家の前には「時國家」という大きな看板がある。上時国家には「本家上時国家」としるされている。
上時国家では「こちらが本家です」と説明され、下時国家で「こちらは分家さんなんですか?」とたずねると「こちらが本家です」と言われた。どちらも江戸時代の建築で重要文化財に指定されている。
どちらが「本家」なのだろうか? 「海から見た日本史像」で網野善彦は次のように説明している。
能登には「あぜち」(庵室)という隠居の慣習があった。跡取りが結婚すると、父母は別の子をつれて別の家にうつる。父母が亡くなると、あぜちのもっていた田畑や下人は「おもや」にもどった。
だが江戸初期は複雑な政治情勢があった。幕府と深いかかわりがある土方家の領土(後に天領になる)が、能登半島を支配する前田藩の海辺の要地に散在して設定されていた。おそらく1616年の検地で、時国家300石のうち「庵室」分としていた100石分が前田領とされ、主屋分である200石は土方領にくみこまれた。その後1630年ごろ、当時の当主藤左衛門が隠居し、1634年ごろに下時国家の屋敷が完成するとうつりすみ、末っ子に藤左衛門の名を襲名させた。
江戸初期、能登では大きな家がいくつも前田家によってとりつぶされていた。時国家が、前田家か土方家の一方だけに属していたら断絶していた可能性もある。時国家は分家することによって領主の警戒感をやわらげ、家の存続をはかろうとした……と、網野はみている。
東京出身の藤平朝雄さん(能登半島広域観光協会相談役)は全国各地を放浪の末、1968年に曽々木海岸にたどりつき、窓岩を目の前にのぞめるユースホステルではたらいた。経営者の娘と結婚して69年からこの地に定住した。
1年ほどして、曽々木観光協会の会長だった上時国家の先代(24代)当主の恒太郎さん(1918~83)から、副会長にえらばれた。当時は上家と下家が交替で会長をつとめていた。「よそ者をえらぶとはなにごとだ」という反発もあったが、恒太郎さんは若者やよそ者が必要だと考えていたらしい。月に2回、上時国家の屋敷をおとずれ、午後8時ごろから恒太郎さんの話に耳をかたむけた。夜中12時ごろ、2杯目の紅茶がだされると「そろそろおひらきに」という合図だった。
藤平さんは曽々木の観光協会をへて、輪島市全体の観光協会事務局長、さらには能登半島全体の観光にもかかわり、能登の民俗文化や歴史をほりおこしてきた。「キリコ会館」(輪島市塚田町)の初代館長もつとめ、「キリコ祭り」の魅力を全国に発信した。網野善彦とも交流があった。
時国家の「本家」をめぐっては、網野が「あぜちイコール分家」と表現して下時国家がクレームをつけたこともあった。
「川の上流が上、下流が下だというだけです。カミさんとシモさんの関係は、本家・分家ではなく、天皇と上皇、会長と社長のようなものです」
藤平さんはそう説明している。
藤平さんが曽々木に移住した当初、時国家は古い体質の大庄屋だと思ったが、その後の網野の研究などによって、海を見すえ、日本全体やアジアともつながり、新しい事業に次々におこすパイオニア的企業体だとわかったという。
ちなみにキリンビールで1966年から69年まで社長をつとめた時国益夫は、上時国家の23代当主の弟だ。その妹は、福井県南越前町の右近家に嫁いだ。右近家は、明治期には約20隻の北前船を所有した大船主で、加賀の船主らと共同で、損保ジャパン日本興亜の前身の「日本海上保険」を創設した。海をとおして全国とつながる時国家の進取の気性は、江戸期から現代まで脈々とつづいていたのだ。
網野が評価した民俗資料館
この地区には両時国家以外にもうひとつ「奥能登にこれ以上のものはない」と網野が高く評価した施設があった。輪島市民俗資料館(輪島市町野町南時国)だ。
網野は「海から見た日本史像」で次のようにしるしている。
曽々木や港の近くに現在の輪島市の民俗資料館を拡大・充実し、地元の考古学と民俗学と文献史料の研究者がそれぞれ少なくとも1人以上勤務して、奥能登の歴史を恒常的に研究するための拠点、いわば「奥能登歴史民俗資料館」あるいは「奥能登歴史民俗研究センター」のような施設が建設されればすばらしいと思っています。
民俗資料館は、上時国家と下時国家のあいだにあった岩倉小学校(1967年閉校)の木造2階建て校舎を利用して1973年に開館した。
4765点の資料の大半は住民らが寄贈した。唐箕などの農具、蓑などの藁製品、機織り機、輪島の塩煎餅を焼く道具、祭りでつかう神輿や面、揚げ浜塩田の道具など、人々の暮らしを包括的にまなべる奥能登随一の施設だった。1974年には年間1万3000人がおとずれた。
だが輪島市の行政はその価値が理解できなかった。「考古学と民俗学と文献史料の研究者がそれぞれ少なくとも1人以上勤務」どころか、学芸員をひとりも配置しないから企画展もひらけず、たんなる「民具の倉庫」になってしまった。
入館者は減りつづけ、2005年には988人に。年間維持費約500万円に対して入館料収入は10万円を切り、2007年3月に閉館となった。
珠洲市の西勝寺の住職で、能登の民俗文化を研究してきた西山郷史さんによると、輪島市教委は、所蔵品を近くにある庄屋屋敷「松尾家」にうつすと説明していたが、2007年の能登地震後うやむやになり、なぜか松尾家は「まるごと一軒貸切宿」になってしまった。西山さんは、石川県の文化財保護審議委員とともに輪島市に資料館存続を申し入れたが決定はくつがえらなかった。
さらに2011年10月、建物の老朽化を理由に輪島市は資料館のとりこわしをきめた。
郷土史家に所蔵品を見てもらい、古文書など230点だけ永久保存とした。庭に移築されていた200年以上前の揚げ浜塩田の茅葺き民家は将来復元できるよう解体して材料を保管することにした。そのほかの所蔵品は分配・返却・公売にかけられ、のこりは廃棄されてしまった。
「能登の里山里海」はこの年、「トキと共生する佐渡の里山」とともに日本ではじめて「世界農業遺産」(GIAHS)に認定された。「周回遅れのトップランナー」であり、古いものがのこっていることが評価された。なのになぜ民俗資料の宝庫をつぶしてしまうのか。
おなじ年に輪島に赴任したぼくは、行政のおろかさに唖然としたが、新聞に記事をかく以外にやれることは思いうかばなかった。
「輪島市は漆器は大事にしているが、民俗や文化財はまったく重視していない。網野先生がご健在だったら、市の考え方をきびしくただしたと思います」と藤平さんはかたった。
時国家も一般公開中止、そして……
輪島市民俗資料館は2007年に閉館になったが、両時国家は奥能登の主要な観光スポットだった。
だが2020年11月、下時国家は一般公開を休止した。そして上時国家も2023年9月、一般公開を終了した。
上時国家は昭和40、50年代の能登ブームの際には年間20万人超がおとずれたが、新型コロナなどの影響で2022年は約3000人に落ちこみ、屋敷や庭園の維持管理費や従業員の人件費も捻出できなくなったという。
日本史を書きかえた重要な文化財を自分の目で見ることができなくなってしまった。
2024年元日、能登半島地震がおそった。2カ月後、曽々木海岸をたずねると「窓岩」は崩壊して「窓」がなくなり、隆起によって火葬後の骨のように白い岩礁がひろがっている。
そして上時国家は住居部分がぺしゃんこになって巨大な茅葺き屋根が地べたに伏せるように落ち、竪穴式住居のようになってしまっていた。
下記は、町野町粟倉の被災地と、上時国家、曽々木海岸を撮影した2024年3月の動画です。
https://youtube.com/watch?v=lcmEkQ28aFQ%3Frel%3D0