■最澄と空海<梅原猛>小学館文庫 20240429
▽仏教の流れ
釈迦の言行録の経典をもとに、500年ほど原始仏教(小乗仏教)がつづき、1世紀から3世紀にかけて龍樹らが革新運動をおこす。
欲望を否定して清い生活をしているだけではなく、大衆のなかにはいれ、と説き、大衆救済にはげむ人間「菩薩」を生み出す。原始仏教の欲望の否定も「こだわり」であるとし、肯定でも否定でもない「空」という概念を生み出す。これによって人間的な釈迦の仏教とは異なる、毘盧遮那(=大日如来)をかかげる自然中心の教えになり、その最終段階に密教が生まれる。密教はヒンズー教の影響を強くうけて栄えたが、インドではヒンズー教にのみこまれてしまった。
空海は、従来の「顕教」を、「空」といいながらも否定に終わっており、仏教の入門にすぎないと批判する。
われわれのなかには宇宙がそのまま宿っている。小さい自分をはなれて宇宙と一体化することによって本当の自由になり、おどろくべき能力を発揮できると考えた。
▽最澄のはたした役割
最澄は19歳のとき比叡山にはいり、法華経にもとづく天台仏教にめざめる。22歳で根拠艇である比叡山寺(のちの延暦寺)をひらいた。
法華経は3つにわかれた仏教を統一し、小乗の徒や、救いの対象にならなかった女人や動植物まで救いの対象とする。大乗仏教のなかでもとりわけ平等思想が強い。聖徳太子は、そんな平等思想で日本を統一しようとし、最澄はそれをうけついだ。
最澄はすべての人間に仏性があり、善行をつめば遠い将来には仏になれると考えた。(空海も仏性論だが、人間はその身のまま仏になれると説くところがさらに徹底している)
最澄とその弟子は、成仏の可能性を、あらゆる生きとし生けるものに広げ、「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想にいたる。それが、日本仏教全体の中心教説になっていく。
日本人は、草も木も、山や川も同じ生命を生きている信じてきた。すべてが神であり、だから、人間も動物も植物が死ぬと必ず神になると考えてきた。
最澄と空海によって日本仏教は都会仏教から山岳仏教へと変容し、山にはいったことで数千年来の神々の影響をうけ、山に存在する死霊との関係をむすんだ。山に根拠地をおいた仏教は、あの世について深い思弁をする浄土教的になり、日本独自の仏教になっていった。また、神道と仏教を融合して修験道という日本独自の宗教も生みだした。
最澄の思想は天台が主だったが、純粋な思弁的体系では怨霊をしずめて国家を安泰にするという朝廷の求めに応じられない。密教という祈祷仏教を学ぶため唐にわたったが、十分には学べず、7歳下の空海から学ぶことになった。
最初は空海は最澄に協力したが「密教は書物で学べるものではない。師について密教の行を修めねばならない」と自分に弟子入りするように要求し、決別する。密教を学びたいという最澄の思いは、弟子の円仁や円珍がうけついで唐にわたり、「天台密教」がつくられることになった。
▽すべての宗派が生まれた叡山
最澄は僧たちを南都仏教の面倒な戒律から解放した。だが堕落しないように、戒律のかわりに「12年間、山から出るべからず」という厳しい行と学問を課し、日本ではじめての大学を設立した。
叡山は天台が中心だが、四宗(天台・密教・禅・律)兼学の場所とする最澄の精神によって、密教や浄土教が流行する場となった。
日本の浄土教は唐でまなんだ3代目天台座主・円仁にはじまり、同じく横川にすんでいた恵心僧都源信によって発展した。平安時代の浄土教は、神様と一体となっており、そのひとつのあらわれが10世紀はじめからの熊野詣でだ。
すべての人間は仏性をもって必ず成仏できる、という最澄の仏性論が、鎌倉仏教の基礎になった。鎌倉仏教の宗派のちがいは、念仏か、題目か、座禅かという、成仏するための方法のちがいだった。
法然と親鸞の浄土教の歴史的意味は、伝統的な神と結びついた日本の浄土教を神から解放し、純粋な仏教にしたと同時に、根拠地を山から町におろした点にある。ある意味で、都市的な南都仏教に回帰したともいえる。
一方日蓮は、天台仏教の根拠地の叡山が密教や浄土教や禅によって占領されたのをなげき、「もう一度、天台にかえれ、法華経にかえれ」と、復古の情熱に燃えた。
日蓮の流れをくむ教派・宗派は、浄土教や禅の宗派とならぶ有力な宗派となり、明治以後の日本のほとどの新興仏教の母体となった。聖徳太子→最澄→日蓮という法華仏教の流れを、梅原は日本仏教の本流と位置づける。
▽戒律の緩和
ユダヤ教からキリスト教への変化は、戒律の軽減化と内面化にあった。新約聖書では、ユダヤ教の戒律にこだわる人たちを「バリサイの徒」=偽善者として批判した。
最澄からみると、南都仏教の僧たちは、古い戒律にこだわりながら、実は欲にまみれたバリサイの徒だった。最澄はイエスと同様、戒律を軽減化して内面化しようとした。だから、キリスト教と同様に懺悔が重視された。
親鸞は戒律の軽減化・内面化をさらにすすめ、最澄の制定した十重戒をも否定し、肉食妻帯もかまわないとした。以後、彼の考えが広まり、日本仏教は戒のない状況になった。
真言の教義は空海という天才がひとりで完成させた。
最澄は、空海ほどの完成された宗教家ではなかったが、その未完の学問を、弟子たちが懸命に完成しようと努力することで、比叡山はその後の仏教の発展の拠点にそだった。日本の仏教はすべて最澄の仏教にはいり、その後のすべては最澄の仏教から出てきた。
▽万能の天才、空海
空海は、明治までは深い尊敬を受け、「偏照金剛」と、光り輝く金剛のような方として、神仏のように崇められた。
ところが明治以降、神格化された人間に懐疑の目をむけ、事実をあきらかにするのが学界の風潮となり、神のような存在はいかがわしいとされ、人間的弱点がありながらひと筋に道を求める宗教家、親鸞や道元、日蓮が崇拝の対象になった。
梅原が最初に密教の哲学性を主張したころには、密教は呪術的性格が強く、空海も、加持祈祷で天皇や貴族にこびを売った人間というのが日本の学会の認識だった。梅原が評価することで、湯川秀樹や司馬遼太郎、陳舜臣らがとりあげ、空海は再評価されていった。
では空海とはどんな人で、彼の密教はどんな思想なのか。
空海は若いときから主流である都会仏教に背をむけて山で修行する。自然のなかに仏をみだし、密教を学びたいと志して唐にわたった。
唐に到着した翌年、恵果阿闍梨とであい、恵果から真言密教をすべて伝授される。本来20年の留学期間を2年間に短縮して33歳で帰国した。
密教の前段階の華厳仏教では、この世は無限の世界であり、その世界の一つ一つに他の世界が宿り、互いに映し合い融け合っているとされる。
密教は、この世界がすべて大日如来のあらわれで、それぞれに大日如来の智慧をもっていると考える。華厳よりも、自然教的な色彩が強く、愛欲もふくめてより肯定的だ。
大日如来と一体になることによって、世界がはっきり見え、それによって、人間を救うために自由に行動できるようになる。そこに菩薩行の真髄があるとする。
欲望を殺しては人間の活動力は失われる。愛欲のとらわれからも、禁欲のとらわれからも自由にならなければならないと、「空」の思想を説いたのが龍樹とその弟子の「大乗」だった。密教の「即身成仏」は、感覚と同時に欲望も肯定し、この肉体のまま仏になれるとする。
だから空海は、この世以外に世界があるとは考えない。この世界そのものが大日如来の密のあらわれなのだから、この世界において力を発揮しなければならない。満濃池築造など、空海の実業家としての側面は彼の宗教の実践だったのだ。
「人間というものは、ある根本原理さえ把握すれば、ふつうの人が思いもかけないような多方面でその能力を発揮することができるのではないか」
梅原は、空海のような超能力を発揮できる可能性をみとめている。