御陣乗太鼓の里
輪島市街から東へ10キロあまりの南志見(なじみ)地区は1954年までは南志見村という独立村だった。「白米千枚田」や「御陣乗太鼓」で知られ、能登半島地震前は約700人がすんでいた。
地元の男しかたたくことができない一子相伝の御陣乗太鼓は、夏の「名舟大祭」で奉納される。
7月31日の夜、山の中腹にある白山神社に4基のキリコがあつまり、神輿とともに急斜面を港にくだる。ここのキリコは昔ながらのろうそくの灯だから、明かりがゆらゆらゆれて幻想的だ。
神輿を舟にのせて海中の鳥居の下まではこび、50キロ沖にうかぶ舳倉島の奥津比咩(おきつひめ)神社の祭神をむかえる。神輿が海岸にもどると神社のふもとの舞台で御陣乗太鼓がはじまる。
鬼のような面をかぶり、海草をかたどった髪の毛をふりみだしてバチをふるう。かがり火に照らされた奇怪な面と、雷を思わせる太鼓のひびきが、あの世とこの世のあわいの世界をうかびあがらせる。
翌8月1日の本祭りは午後2時ごろ舟に神輿をのせて、海中の鳥居まで祭神をおくったあと、ふたたび太鼓が奉納される。
上杉謙信の軍勢が1577年に名舟に攻めこんだ際、鬼や亡霊の面に海藻の髪をふりみだして太鼓を打ち鳴らして夜襲をかけ、上杉軍を撃退したと公式には説明されている。だがこれは昭和40年代につくられたストーリーらしい。
輪島前(わじまさき)神社の中村裕・宮司(2012年当時)は次のように説明してくれた。
「加賀藩が400年前、海士町の住民に漁場として舳倉島をあたえたが、舳倉島は本来、名舟に属する島だった。その後150年間、明治になるまで島の争奪戦がつづいた。その争いで、面をかぶって太鼓たたいて夜襲をかけたのが御陣乗太鼓のはじまりです」
そう考えると、舳倉島の祭神をむかえるという意味がよくわかる。
夫婦出稼ぎのムラに工場を
かつて輪島商工会議所会頭をつとめた大向(おおむかい)稔さん(80)は、御陣乗太鼓の白山神社から東へ約1キロ、南志見地区の中心の里(さと)という集落にすんでいる。
この地区の南志見住吉神社の「水無月祭り」は5基のキリコが集落をねりあるく。御陣乗太鼓にくらべると地味だが、1年のまんなかの旧暦6月晦日にケガレをはらう昔ながらの「夏越し(なごし)の神事」の雰囲気を味わえる。
大向さんの父の貢さん(1918~2002)は戦時中、南満州鉄道(満鉄)につとめ、戦後の1948年に「大向高洲堂」を創業し、輪島塗を代表する企業にそだてた。1974年から86年までは輪島市長をつとめた。
当時は、多くの人が冬場は出稼ぎにでていた。とくに南志見は夫婦で出稼ぎをして、その間は祖父母が子どもをそだてる家が多かった。貢さんは市長選に立候補する際、当時絶好調だった漆器業界が農村の人々を雇用することなどをもりこんだ「農工一体化政策」をかかげた。
みずから実践するため、夫婦の出稼ぎが多い南志見に分工場をつくることにした。300坪の敷地全体を厚さ50センチの鉄筋コンクリートの基礎でかため、鉄骨木造の頑丈な工場をたてた。夫婦18組36人をやとった。
大向さんは父から会社をひきつぎ、2001年から3年間、輪島商工会議所会頭もつとめた。その際、農漁業の従事者が、加工や販売まで手がけて収益をあげる1.5次産業化に注目した。
南志見は良質の野蕗がとれる。福井の漬物業者が農家から仕入れて伽羅蕗(きゃらぶき)に加工して「京のきゃらぶき」として売っていた。地元で加工・販売まで手がければ大きな利益になるはずだ。
金沢の佃煮の会社に協力してもらって日本一の伽羅蕗をめざすことにした。大野(金沢市)の高品質の醤油と、全国でも有名な俵屋(金沢市)の飴をつかい、輪島の旅館やホテルに試供品を配布して朝食にだしてもらい、観光客にPRする……という方針をたてた。
ところが、現地の責任者になった農協OBは「試供品はもったいない」「高い醤油や飴はもったいない」と主張し、安価な商品を農協の店舗にならべた。佃煮会社の社長は腹をたてて手をひき、計画は頓挫してしまった。南志見では今も、春になると外部の業者がおばあさんたちから野蕗を買いつけている。大向さんはふりかえる。
「一村一品運動みたいなかたちできちっとつくれば、5倍6倍の利益になると思ったんですが……もったいなかったですねぇ」
会社が倒産、念願の「百姓」に
大向さんは若いころから「50歳になったら百姓に」と考え、輪島市街で畑をつくっていた。
だが1990年代にバブル経済が崩壊し、会社の経営も右肩下がりがつづき、やめるにやめられないまま、2011年に大向高洲堂は倒産した。
会社の清算を終え、倉庫にしていた南志見分工場跡の建物に移住し、念願の百姓生活をはじめた。
2反(20アール)の田をかりて大根や小豆、ニンニクなどをそだて、家のわきの畑で葉物野菜などをつくる。玉ねぎは毎年2000個以上とれるが、収穫物は販売せず、すべて知人や友人にくばってしまう。毎年冬には本格的なキムチを漬ける。2023年には友人たち30人でキムチづくりをたのしんだ。
「もうける農業ではなく『百姓』をしたい。大工仕事から野菜づくりから漬物づくりから……百の仕事ができる人間が百姓なんです。百姓はたのしいですよぉ」
東京で成功した経営者や銀行幹部の友人たちから「大向さんみたいな生き方がうらやましい」といわれる。東京近郊では2、3坪の畑を月3万円でかりて野菜をつくる人もいる。
「ひょっとしたら、もうおそすぎるかもしれないけど、百姓が再評価される時代なのではないか……」
そんなことを考えながら2024年正月をむかえた。
ライフラインがとだえても、百姓は生きる
元日の地震で、海岸沿いの国道249号も内陸にむかう道も土砂崩れで寸断され、南志見は孤立した。白山神社の山が崩落し、ふもとの民家を直撃して住民が犠牲になった。
約500人が間仕切りのない体育館や旧小学校校舎で寒い夜をすごし、先の見えない日々につかれはてていた。現地をおとずれた県議会議員のよびかけで南志見地区全体が集団で避難することになった。
大向さんは元日、家族や友人10人ほどで宴会を楽しんでいた。午後4時すぎの地震で家のなかはめちゃくちゃになったが、鉄骨木造建築の家は窓ガラスひとつ割れなかった。
畑には白菜やキャベツ、大根、人参がそだっている。
トイレの水は、目の前の南志見川で、ひもをつけたバケツでくみあげる。キムチを漬ける100リットルの桶7つに雨水をため、煮炊きや台所でつかう。飲料水は山の水をくんでくる。
夜の明かりは、ろうそくやランプがある。大きなろうそくの上に銀紙をつけると、光が分散して読書にも不自由しない。毎日がクリスマスイブのようだった。携帯電話は国道を1.5キロほど輪島方面にいくとなんとかつながった。
1月8日、南志見地区の区長らが家にきて、2日後に集団で避難するとつげた。
「市役所の支所も公民館もいっさいなくなります。支援物資もこなくなるし、情報もとどかなくなります」
大向さんは住居が無事で、野菜も水も明かりも確保できている。かたづけの仕事が山ほどのこっている。家をはなれる必然性はかんじない。区長らにこうこたえた。
「私は百姓をやっているので 情報は必要としませんし、支援物資もあてにしていませんから大丈夫です」
南志見地区の700人のうち3世帯6人がのこった。無人になった里ですれちがうのは国交省か自衛隊か警察の車両だけになった。
畑をたがやし、本を読み、週に1度、車で1時間かけて自衛隊の風呂にはいりにいく。
地震から2カ月後に電気は復旧した。4月12日には小学校跡に仮設住宅54戸が完成した。5月には輪島市街への国道が仮復旧した。だが5月末現在も断水したままだ。
「私は縄文時代に生きてると思って百姓をしているので、不自由はかんじていません。黒澤明の『七人の侍』じゃないけど、最終的には百姓が強いんです」
「家が無事な人までがこぞって避難したとき、百姓魂が薄まってしまったんかなぁとも思いましたが、南志見はまだまだちゃんとした百姓がおります。5、6万円の年金だけでも前向きに生きていけます」
現代の百姓はぐくむシェアハウス構想
今回の地震によって過疎は加速するだろう。能登は復興できるのだろうか?
大向さんは「シェアハウス」による復興を提案する。
昔の農村の大家族では、福祉などの公的サービスがなくても、高齢者や障害者をささえ、子育てや教育もになっていた。ムラには人々の最低限の生活をささえる自治の力があった。
若い家族や老人、Iターンの若者らが、プライバシーを確保しながらともにくらすシェアハウスをつくる。現代版の大家族だ。そうしたシェアハウスが連携してコミュニティを形成して地域課題にとりくむ。
そこでは、大工仕事も野菜づくりも介護も子育ても共同の力でこなし、「百の仕事ができる人間」=「新しい百姓」がそだっていく−−。
御陣乗太鼓やキリコ祭りは、能登の人々の心をつなぎ、強い郷土愛をはぐくんできた。それが、現代版大家族であるシェアハウスづくりの基盤になりうると大向さんは考えている。
「震災によるマイナスをゼロにもどすのではなく、新しい社会構造を確立できる可能性もあると私は思っているんです」