「日本」とはなにか<米山俊直>

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■人文書館 240619

  著者はアフリカから祇園祭などの日本の祭りまで調べてきた文化人類学者。学生時代、私は彼の祇園祭フィールドワークのゼミに参加させてもらった。えらぶらない人で、フィールドワークで鉾町に2カ月みっちりかかわるのは得がたい体験だった。
 その後、何度か講演を聴き、何冊か著書は読んだが、ぼくの取材領域とはかさならないまま、2006年に亡くなった。
 能登半島地震をめぐって、先生が提唱した「小盆地宇宙」について復習したくて最晩年の文章をまとめたこの本を手にした。
 「ムラ」について「安易な近代化で容易に消滅するようなチャチな存在ではない」という評価は谷川雁に似ている。三内丸山遺跡をとおして縄文を重視していた。農村社会の都市社会化を指摘していた……などなど、興味深いテーマがつまっていた。
 このおもしろさになぜ20代のぼくは気づかなかったのか?
 考えてみたら、米山の著作を読んだのは1985年から93年で、網野善彦や佐原信らの歴史学は当時から読んでいたものの、ぼくが農山村集落をめぐるようになったのは2002年からだった。みずから現場を歩く以前は、米山のすごさに気づけなかったのだろう。03年ごろに米山の著作を再読していたらまっさきにインタビューに行ったのに……後悔してもはじまらないのだが。

 「小盆地宇宙」。日本の文明と文化の多様性を分析する際の基礎的な単位を米山は「小盆地」とよんだ。盆地の内部には、それぞれ「世界観」が存在するからだ。
 閉鎖的な空間の中心に、物資や情報があつまる城下町があり、盆地底の水田地帯と丘陵部の棚田、畑地、果樹園、茶畑、桑畑などの地帯、それを里山と奥山がとりかこむ。そこには弥生時代以来の稲作もあり、幕藩体制下の行政単位である領主と武家屋敷があり、物資を流通させる商家や鍛冶屋などの手工業者の居住する城下町がある。その一方で、「山に隠れる人たち」が、縄文時代以来の伝統を伝えている。
 盆地にとって重要なのは、周囲の山々から流れでて、次の盆地や平野とむすぶ河川だ。こうした多様で小さな盆地世界と流域世界にこそ、日本文化の基層が存在していると米山は考えた。
 全国各地の「小京都」は、京都をモデルとした小盆地世界である。とくに江戸時代以降、小盆地の中心に京都をモデルとする小さな文化都市が形成された。秋田の角館は、佐竹氏の一族が入城してから町並みを京都ににせ、川の名を鴨川とよび、山にも小倉山・東山と名づけた。(小和田哲男「城と城下町」)
 「小京都とは、文明にあこがれたそれぞれの地方の人々が、都ぶりを移植して……雅を導入しようとした心意現象の表現の結果であるといえよう。それは上代の日本人が外来の仏をありがたいものと感じ、仁義礼智信の徳目に納得した態度をとり、律令制を採用した心意と共通している。あるいは文明開化の時代になって、自分を野蛮・半開・文明の三段階のうち半開と位置づけ(福沢諭吉)、西欧に追いつき追い越すことを目指した心意とも共通である。この向上心は、日本人のひとつの民族性といえるかもしれない」と日本人の民族性まで論じる米山の展開力は梅棹忠夫に似たものをかんじる。

 戦後も長いあいだ、日本の社会構造は、都市性の論理ではなく、農村の論理によって組織され、だから社会の近代化が遅れたと考えられていた。米山は、農村の論理は封建的なだけでなく、妥当な論理性と合理性をふくむと考えたが、一方で、日本の社会の基盤を形成していた農村社会と農民のメンタリティーは、20世紀末に大きく変質し、日本列島は都市列島になり、農民を市民に変えたと米山は論じた。農民は、言葉の本来の意味での「百姓」へと回帰したとも論じている。谷川雁は、市民化・都市化をマイナスに評価したが、米山は、市民化した農民を「百姓化」としてプラス面も見ていた。

 縄文へのこだわりもおもしろい。
 日本の歴史は弥生から現代までとされてきたが、三内丸山遺跡によって、それ以前に、弥生から現代までとほぼ同じ1500年継続した縄文集落があったことがわかった。(真脇遺跡はさらに長い)
 文明の基点を、弥生時代ではなく、三内丸山遺跡を生み出した縄文時代に置きかえることによって、日本文明の歴史を2300年前から5000年前にまでさかのぼらせることができると米山は考えた。
 三内丸山は、周辺に栗林があり、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウなどを栽培していた。洗練された漆器や、糸魚川のヒスイ、北海道の黒曜石もつかわれていた。幅12メートルの道路が420メートルにわたって海の港にむかってのびていた。これらは農耕や広い地域の交流を示している。
 エスキモーやピグミー、アボリジニなどの調査から、物質はかぎられ、家族集団を超えた社会組織をもたず、世界観も単純な自然崇拝にとどまり、食物を求めてさまよって暮らす……というのが、狩猟採集社会だと考えられていた。しかし上記の諸民族は極限的な自然条件のもとにあり、亜寒帯から亜熱帯地域までの、自然環境がゆたかな地域の狩猟採集民については言及されていなかった。三内丸山遺跡は、その問いに答えるヒントになったという。

 米作りは、現在は平野が中心だが、織豊政権までの日本では、天水利用による、渓谷や中山間地の棚田が主流だった。それが、分権から集権への統治機構の変化、土木技術の発達、治水・灌漑・干拓、品種の選抜がかさなり、米の石高によって経済の規模をはかる制度が導入された。米本位の土地利用と経済秩序が、極度の土地節約的、労働集約的な農耕文化を生み出した。
 一方、餅をつかない正月が全国にのこっていることから、サトイモが主食だった地域があり、白米が国民食になったのは、戦時中の配給の影響が大きいとも指摘した。

 「京都」については、秦氏ら渡来人によって基礎がつくられたという歴史からひもとく。
 源平合戦という最初の危機は、古代的な政治都市から宗教都市へと変質してのりこえた。第2の危機の応仁の乱後は、町衆が登場して西陣の機織りが発展し商業都市に脱皮した。第3の危機の東京遷都では、「古都」となるよりも、近代都市の道をえらんだ。祇園祭の中心は祇園感神院だったが、明治の神仏分離令で八坂神社と改称された。祭神を牛頭天王から素戔嗚命に変更し、天台宗の末寺の地位を捨て、国家神道のなかの地位を高めた。
 京は17世紀は重要な商工業の中心で、その地位が18世紀になってから大坂に移った。1634年には、京・大坂にはそれぞれ41万人前後、長崎・堺は5万人、江戸は数十万人だった。18世紀になると江戸は130万人に達して、世界有数の大都市になった。

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