穴水町の四村(よむら)地区は、標高200メートルの山間の盆地に40軒ほどの家が点在している。冬は1メートルの雪にとざされる高齢化率5割超の「限界集落」だが、能登キリシマツツジを活用した村おこしをしかけ、「農家レストラン」をひらくなど、なぜか元気だ。(2011年)
キリコも学校も消えたムラをいろどる
枯れ葉が舞う谷間の田にキリシマツツジの幼木がならんでいる。ツツジによる村おこしをはじめて20年余。黒い土をさらしていた休耕田はツツジ畑となり、いっせいに開花する5月の風景ははなやかになった。
「真っ赤な花がさいて、田んぼの水と新緑の色とが映えてとてもきれいだよぉ」と白坂政治さん(56)。
地区内の約15軒が栽培し、ツツジの販売額がコメの収入を上まわる家もあるという。
四村地区はかつて、1軒あたり5、6反の田と林業でくらしていた。林業の最盛期は、2トントラック1台分の木材で1年分の生活費をかせげるほどだった。そのためか土蔵をもつ大きな屋敷が多い。
だが木材価格は暴落し、1960年にスギ1立方メートルで12人分の人件費をまかなえたのが0.4人分に。
若者が流出し、キリコや神輿で夜中までもりあがった地区内4集落の祭りは、頭屋(祭りの世話役)の家で飲み食いをするだけになった。唯一神輿をだしていた桂谷集落も、ある家に不幸があって8人の担ぎ手がそろわず2011年は断念した。
上中公民館は1989年、「一村一品」運動としてキリシマツツジやササユリの栽培にのりだした。中心になったのは、若いころ青年団で演芸会や映画上映会などにとりくんだ人たちだ。上中小学校の教諭の指導でツツジの栽培法をまなび、「上中園芸組合」を92年に発足させて「即売会」をひらいた。中世の名僧・峨山禅師がひらいた「蛾山道」が地区内をとおるため、四村のキリシマを「能登蛾山キリシマ」と名づけた。
園芸が趣味だった白坂さんの妻、優子さん(56)は率先してツツジ栽培を手がけた。即売会では1本10万円、20万円する木が次々に売れた。栽培農家が一気に増え、休耕田でそだてるようになった。
毎年5月の即売会には県内外から1000人以上あつまる。だが地区内には飲食店も自動販売機もない。そこで2010年から婦人会が「農家レストラン」をはじめた。地元のコメや野菜をつかった料理を、蔵でねむっていた輪島塗の膳にもる。
「冠婚葬祭を家でやるから料理はお手のもの。仕事をもってるから正直大変だけど、ちょっとでも活性化すればと思ってます」
婦人会長をつとめる看護師の中田昌子さん(57)は話す。
村おこしの「知恵袋」だった教師がいた上中小学校は1995年に119年の歴史をとじた。実動部隊の拠点だった公民館は廃止され「上中集会所」になった。村おこしをになってきた白坂さんらは、後継者がいないから青年団を卒業できず、そのまま青壮年団員となった。
「学校や公民館活動という土台があったから、私らの村おこしの活動ができた。むずかしいとは思うけど、交流人口を増やし、いずれは定着人口も増やしたいんです」
薬売り、ブロガー……遠来の客をもてなす
標高200メートルの四村地区は、冬は雪にとざされる。かつては木炭を売るにも病院にかようにも3、4時間歩かなければならなかった。中山国夫さん(77)は、町の病院で亡くなった近所のおじいさんがソリにのせられてもどってきた光景をまざまざとおぼえている。
そんな隔絶されたムラだから、食材の多くは自給していた。
沢では今は禁じられている「毒流し」をした。サンショウの木の皮を煮て臼でたたいて布袋にいれ、川でふみつけてエキスをながすと、下流でアマメやゴリが腹をみせてうかんだ。自家製どぶろくの格好のつまみになった。罠でとったウサギやニワトリの骨は細かくたたき、つぶした豆とメリケン粉をくわえてだんごにした。
四村がいちばんもりあがるのは、春と秋の祭りだ。4集落が1日ずつずらしてひらき、お互いに「お呼ばれ」しあう。中山さん宅には輪島塗の黒い膳が30人分あり、次々におとずれる客のため、女性は夜遅くまで台所にくぎづけだった。
学校の先生はすべての生徒・児童の家をまわり、4日間酒をのまされつづけた。
「うちの子が学校にかよっていた20年ほど前は、先生方は最後にうちに泊まっていきました。子どもたちも『お呼ばれ』を楽しみにしていたもんです」
本教寺の葛城真証住職(61)はふりかえる。寺で毎月もよおされる報恩講では、小豆や蕪、人参、里芋などを煮た「ざく煮」がふるまわれた。
中山さん宅には、いまでも毎年春と秋の2回、「富山の薬売り」がきて泊まっていく。四村地区では昔から、各集落の有力者だった5軒の家に定期的におとずれた。子どもたちは紙風船などのおまけをよろこんだが、大人にとっても薬売りは外の情報をもたらす貴重な存在だった。
「山奥で新しい情報に飢えていたからから、遠来の客を大事にしてきました」
そんな四村に2011年9月、新しい「遠来の客」がやってきた。人気ブログを運営する東京の起業家の女性7人が、四村に1泊し、稲刈りを体験した。都会人の目線で魅力を発掘し、特産品開発などにむすびつけようと穴水町役場が企画した。
「(稲刈りが)むずかしい! 農家の嫁にはなれない!」
はしゃぐ女性らに指導役の年配女性がきりかえした。
「田舎に嫁にきてくれたらなにもせんでいい。座敷に大事にかざっておく」
「食事などの準備も大変だろうに、よく都会の客をうけいれる気になりましたねえ」
私が50歳代の男性にたずねると、笑いながらこたえた。
「ここは穴水でも一番の山奥だから、こっちからでていかないと見向きもされませんから」
ムラの団結をはぐくんだ田植えや稲刈り、屋根のふきかえなどの共同作業はなくなった。祭りは簡素化し、報恩講などの寺の行事も減っている。
「あと10年(ムラが)もつかなあ、と心配にもなるけど、一生懸命とりくんでキリシマツツジみたいに花を咲かせた成功体験もある。昔からうけついできた団結力や進取の気性に期待したいね」
葛城住職はかたった。
2024年、空き家がめだつ里
2024年9月、12年ぶりに穴水町の中心から四村への道をたどった。鬱蒼とした杉林の谷沿いの道を30分ほどたどると、山にかこまれた隠れ里のようなムラがぽっかりあらわれる。田んぼのわきに「能登峨山キリシマの郷」の看板がたっている。
桂谷・上中・大角間・越渡(こえと)の4集落で構成することから四村とよばれる。そのうち最大の桂谷集落には20軒ほどが点在している。どれも立派な屋敷だが、半分近くは人がいる気配がない。
集落の中心にある本教寺で葛城真証住職(74)に再会した。
「あのときのブロガーさん2人とは今もつながってるよ」
関東にすむ2人は「山菜を食べたい」「雪をみたい」と時折たずねてきていた。2023年は、仲間と5人で泊まりこみ、ざく煮やいとこ汁(小豆と豆腐と野菜の味噌汁)などの浄土真宗の報恩講料理づくりを地元のおばあさんからまなんだ。
「関東大震災ってあったんやさけな。被災したらここは広いさかい、こっちの部屋は○○家、こっちの部屋は△△家の避難所として確保してやっからな」
葛城さんは2人にそう声をかけていた。東日本大震災のときは、被災地の子どものグループや親子づれを1週間ずつうけいれた。まさか関東より先に能登が壊滅するとは思わなかった。
寺は避難所 「お講」が炊き出しに生きる
元日、子ども一家4人と食卓をかこみ、「さあそろそろやりましょうか」とごちそうを前にしていたときに激震がおそった。「テーブルの下に!」とさけぶひまもない。小4と中2の孫をとっさにだきよせた。裏山がくずれ、巨大な岩が轟音をたてて窓の目の前に落ちた。間一髪だった。
幸い本堂も庫裏も大きな被害はない。まもなく、住民があつまってきた。四村の人口は60人だが、元日は120人ほどがいた。寺に35人、上中集会所に80人が避難した。
住居部分のキッチンはオール電化だからつかえないが、門徒が「お講」料理を準備するプロパンガスの台所があった。輪島塗の器はふんだんにある。停電でもあたたかい食事を用意できた。正月用の食材をもちより、ストーブで餅を焼いた。住民が整備した簡易水道は断水しなかった。寺にはろうそくの燃えかすがたっぷりあり、照明に活用できた。
「お寺が非常時の避難所になれたのは、800年前の親鸞聖人への尊敬の念があって、お講などの伝統文化をつたえていたから。コミュニティにおけるお寺の役割に目を向け、自覚せんならんね」
だが1週間後、だれからともなく「裏山がうごいとる。ここにはおられるん」と言いだし、全員が集会所にうつった。
逆境のムラに菩薩がいた
葛城さんは桂谷地区の区長であり、四村の4集落の区長会長でもあった。
まず、帰省中の家族を四村から避難させることにした。
冬場に外にでられる車道は1本しかない。その道もあちこちに亀裂や段差ができている。
「自分たちで脱出できる方法を考えよう!」
若い人に声をかけて土嚢をつくり、道路の亀裂に放りこんだ。4日になってやっと車で地区外にでられるようになった。
4集落の区長は毎日午後5時に集会所にあつまり、「こんな状況の人がおる」「病院につれていかんならん」「役場ではこうだった」……と情報を共有した。
葛城さんはふだんは片道30分の道のりを3時間かけて役場にかよった。元役場職員だから組織は熟知している。
「道路の穴がひどいから土嚢をつめてくれ」
「要介護のじいちゃんを施設にいれてくれ」……
辺境の四村は春まで固定電話はつながらず、携帯電話もつかえなかった。
「緊急事態があったらどうなるんや!」
1月10日ごろ、葛城さんが役場につめよると、衛星電話を設置してくれた。翌日、おばあさんが体調をくずし、さっそく衛星電話で救急車をよんだ。
「設置が1日ずれとったらおばあちゃんの命は危なかった。ホッとしたわぁ」
集会所の下水がつまると、だれかが汚物に手をつっこんで修理する。簡易水道がつまると、寒いなか穴をほってパイプの穴をふさぐ。集会所の屋根はみんなでブルーシートをかけた。逆境でムラは底力を発揮した。3月からは2週に1度、東京からボランティアがきてかたづけを手つだってくれた。ブロガーの女性もかけつけた。
5月、最後の2世帯が仮設住宅にうつることになり避難所の「閉所式」と慰労の宴をもよおした。
「人間の行動をうながすものが生きた宗教、生きた哲学です。それが具体的にみえました。菩薩は『本願』をおこし、それを実践したことで仏様になった。住民のなかにもボランティアのなかにもそんな菩薩の姿があった。震災のなかでそんな尊い姿がみえてきてうれしかったねぇ」
地震で出現「10年後のムラ」
かつて神輿やきりこでにぎわった4集落の春秋の祭りは、私が取材した2011年には、祝詞をあげて神職が家をまわって、頭屋(とうや)の家で直会(なおらい)をする、という形に簡素化していた。
24年は、桂谷集落は神主をよんでお宮でお参りしたが、ほかの3集落は祭りはできなかった。
地震で各集落のお宮はたおれ、再建をめざしているが、7人がすんでいた越渡(こえと)集落は、仮設住宅入居者をふくめても4人になった。
「ここに神社がありました、という記念碑だけになるのでは……」
そんな声もでているという。
2011年の四村は36世帯100人だったが、23年には31世帯60人だった。地震後はこれが半減しそうだ。
「地震前、10年後には15軒かなあ。私らはあと10年はおれるだろうから、ボチボチ今後のことを考えるつもりだったけど、一気に現実になってしまいました」
「公費解体」で空き家が更地に
桂谷には20軒の家があるが、半分は空き家だ。自然倒壊を待つか、経費をだして解体するか、都会にでた人たちは迷っていた。23年秋、1軒の納屋が道路にたおれそうになって解体したら100万円かかった。母屋なら2〜300万になるだろう。空き家はこわすにこわせない「負の遺産」だった。
ところが地震がおきて「半壊」以上は公費解体の対象となり、一気に解体がすすむことになった。
建物が消えた更地には、雑草がおいしげる。桂谷では年1回、集落全体で草刈りをしてきた。1軒2軒と離村するたびに1人あたりの担当範囲がひろがっていた。
20軒で整備した簡易水道も、のこった家で維持管理をになわなければならない。
24年9月のある日、水道の水量が急に減った。葛城さんともう一人の男性が点検すると、地中のL字の管が裂けて水がもれていた。すぐに修理した。
「私が死んで家内ひとりになったら、こんな作業はできんよ。交流人口や関係人口を増やそうとしてきたけど、『オーイ!』とよんだって東京の人がすぐには来れんわいね。すんどるものが手当てしていかんなん。どうしたらいいんか、だれか知恵をさずけてくれんもんかねぇ」
葛城さんはそうかたってため息をついた。
四村(よむら) 旧門前町と旧富来町と接する山中にあり、桂谷・上中・大角間・越渡(こえと)の4集落で構成するため「四村」とよばれる。1960年には63世帯346人、2011年は36世帯100人。能登半島地震直前は31世帯60人。