■日刊現代(講談社)250201
2011年の東日本大震災は、発生28分後に「緊急」災害対策本部。16年の熊本地震は発生44分後に「非常」災害対策本部を設置した。
能登半島地震では発生から1時間20分たって、もっとも軽い「特定」災害対策本部、4時間後にようやく「非常」災害対策本部となった。しかもその最初の会議は17時間後だった。その後の仮設住宅建設なども非常識なほどに遅かった。
能登半島地震のあまりにおそい対応の原因はなんなのか、どうすればよかったのか。「政治」側から解き明かしてくれることを期待して、この本を購入した。学べることもあったが、内容は薄かった。
1995年の阪神淡路大震災では、後藤田正晴の助言で村山富市首相が小里貞利を発災3日後に担当相として現地に派遣し、陣頭指揮をとらせた。各省庁から事務次官クラスを小里につけて現地に派遣した。現場ですべて決めることができる「もうひとつの政府」を作った。その瞬間から復興作業が進んだ。大災害が起きたとき、政治判断できるトップを派遣して「現地政府」をつくることがまず大切なのだ。だが東日本ではそういう対応にはならなかった。
中越地震では、新潟県や長岡市などは、「復興基金」の仕組みをつくった。「自由度が高いお金があれば、現場しかわからないような重要なところに使える」からだ。
能登半島地震はどうだったか。
東日本大震災で菅直人が批判された首相の早期現地入りは、警備負担が大きすぎる。だが岸田首相は14日後に被災地を訪れた。一方、早期に現地を見るべき県知事は岸田が来る日まで能登に行こうとしなかった。
東日本大震災被災地の議員は「なにが起きているかわからない。ならばすぐに現場に入るのが政治家でしょう。地元の政治家は歩いてでも入るべきです」と言った。だが能登半島地震では、国会や政党が現地入りを制限した。それを破って現地をたずねた山本太郎の報告を、維新の音喜多は「そんなことは現地にいかなくてもわかる」と口汚くののしった。ここまで現場の意味がわからない醜悪な政治家が生まれているとは驚きだった。
岸田は、被災地支援の予算を予備費で確保したと自負するが、各省庁の枠があり使い勝手が悪い。自治体が自由につかえる「復興基金」をつくるべきだと筆者は言う。