■(要約と感想)250220
阪神淡路大震災で、3日間会社を休んでボランティアで米を配布しに行ったが、3日のはずがなぜか3年間になった。
当時の映像では、若いボランティアたちが「長期の有休とって、神戸にきてほしい」「試験なんてやめて大学生は来たらいいのに」「この鍋づくりに参加してほしい」と呼びかけている。
神戸元気村は、避難生活をする人たちがみずから炊き出しの料理をつくる。ローラー作戦で被災した人を訪問して心のケアにとりくむ。倒壊した家から「出せるもんはだしたろー」と「宝物」をほりだす。
「心の豊かさにはここにある」と、テント生活を送るボランティアの若者たちは生き生きとしている。
この雰囲気、1988年の戦時体制下のニカラグアに似ていると思った。
内戦で経済はボロボロ、ハリケーンでいくつかの町が壊滅するなか、住宅再建のボランティアに参加した。学校の床に雑魚寝して、スコールの雨で水浴びをする日々だったけど、毎日歌って踊って楽しかった。
阪神大震災のとき、私は朝日新聞京都支局にいて、西宮に応援取材にはいり、半年か1年後には西神の仮設住宅を取材したが、ボランティアにとびこむという発想はなかった。たぶん、新聞記者になって5年たち、心が硬直化していたんだなあと、30歳の草島さんの笑顔を見ると思わせられた。
1997年の重油災害では三国町へ。2004年の中越地震でも「中越元気村」を開いた。阪神淡路から9年もたっているのに、避難所では3000人が雑魚寝していた。プライバシーを確保して、足を伸ばして寝られるようにテントを配った。東日本大震災では発災翌日の3月12日から炊き出しをした。
能登半島地震では1月12日に炊き出しをした。避難所では発災から12日たっても冷たいおにぎりしかなく、床に雑魚寝だった。役所職員も地べたに布団で寝ていてバタバタたおれていた。
鶴岡市は、東日本大震災後に開発された段ボールベッドを1500セット備蓄している。避難所でも、清潔なトイレとあたたかい食事、ベッドとプライバシーを確保しなければならない。雑魚寝では関連死はあたりまえだ。避難所の風景を変えなければならない。
イタリアでは48時間以内にテントが配られ、ベッドもあり、清潔なトイレやキッチンも設置され、48時間以内にふつうのあたたかい料理が提供される。台湾も家族向けテントや簡易ベッドが48時間以内に提供される。
震災を経験し、現場の課題がわかる人が行政のなかにいなければならない。
草島さんのような人が「民間災害基本法」をつくり、「防災庁」などの行政機関の内部に常駐して災害対策を根本からあらためなければならないのだろう。
あと、能登でも、輪島の25キロ沖合の七ツ島近辺に浮体式洋上風力発電の計画があり、漁協も賛成している。その是非や課題についても教えてほしかった。