■全国防災関係人口ミートアップ250224
支援者には興味がない。被災者からなにをどうしたらよいか、引き出すくらいしかできない。
丹波市の水害では役所からボラセンを立ちあげてくれ、と言われた。
センターの箱物とネットと電話回線、軽トラック2台、常駐できるアシスタントを用意してくれることになった。
ただ軽トラックを市役所が借りると、公用車になるから民間人は運転できない。そこで東日本のがれき仕分けなどに活用された「被災地優先の緊急雇用枠」で、アシスタント2人をやとってもらった。彼らは臨時の公務員になる。
同時期に広島の土砂災害が起きて、マスコミがそっちに流れ、丹波のことがとりあげられず、ボランティアも集まらない。自治会長を通して地元ボランティアを集めようとしたが、会長も情報を得て折らず機能しない。土砂にまみれたまま手つかずになっていた。
フェースブックで毎日情報発信した。地元で介護保険事業所を経営してる40代の人をまきこんだ。小さなポスターをつくり、ボランティアにできることを「雑巾を洗って手伝える」とか具体的に書いて全戸配布してもらった。そうしたら「こんなことしてもらえるやろか」と電話が殺到した。2人のアシスタントは地元雇用だから地元のことがわかる。被災家屋1軒ずつまわってもらって地図をはって、ポストイットで一軒ずつ書き込んだ。
地図がはってあるからボランティアと情報を共有できる。「ここは力作業だから君らが行って」…と男の子を派遣する。女性や中高生は細やかなことに気づいて、対話がはじまり、本音を聴き取ってくる。それをボラセンでフィードバックして地図に反映させる。「ぼくは重機操作できるからここにいきます」とボランティアが手をあげてくれるようになる。
在阪のメディアにも動いてもらい3800人のボランティアが活躍した。8月に発災、12月にはボラセンも閉じることができた。
集まったボランティアが「自分たちが運営してる」と思うようになった。アシスタントは夕方までの勤務だから、夜はボランティアと私とで解決に取り組んだ。
駐在所に「あやしい団体です。車中泊してるのはボランティアなので、なにかあったら連絡して」とあいさつする。その後、おまわりさんとはいっしょにサンマをつつくようになった。
ヨソモノの私はその土地の人に学ぶのが一番。
石巻のミナト地区の小学校に発災1週間後に入った。それから7年。事務所を設置。復興住宅ができ、その自治会づくりにかかわった。復興住宅には6階に広いスペースがあるが、カギがどこにあるのかも住民は知らない。防災用具も用意されたが、そのカギのありかもわからない。
ならば、6階をつかうイベントや、防災パーティーをしようとなった。「災害時の炊き出しバーベキュー」ということで牡蠣を何十キロも食べた。そういうイベントには女性たちが出てきてくれる。
私ができることもできないふりをする。知見をひけらかしすぎてはいけない。至れり尽くせりのボランティアをしていたら、みんなの能力を奪ってしまう。ボラが撤去したあと、被災者は放置されてしまう。
阪神淡路大震災でうちもほぼ全壊だった。当時35歳だった。真っ赤な口紅であやしかった。仮設で「なんやあのボランティア、スポーツカーできて、ヒールはいて」という陰口をきいた。自分たちだって震災前はおしゃれをしていた。プレハブに暮らしてコンプレクスを感じていた。
それから私は化粧をとった。身ぎれいにするのはやめた。そうすると気やすく声をかけてくる。
兵庫県警は、仮設のみまわりとかいろいろとりくんでいた。警察官はだめでも私は家にいれてくれるおばあさんがいた。
人としての尊厳やプライドを、私たちはサポートしているから、ということで、ときに見誤っているのでは。
閉じこもっていたおばあさんが、猫の餌やりをはじめた。バスに乗って子猫の餌を買いに行くようになった。「こんな猫みんかった?」と隣近所の人と話すようになる。彼女は「天岩戸さん」と呼ばれていた。
「天岩戸さんが散歩に行ってたよ」と近所の人は喜んだ。
ある日、「お金払ってもいいから、スプーンがほしい」と言われた。ガーンときた。
それから1品10円のバザーをはじめた。無料でくばるときとちがって、丁寧に選ぶようになる。その時の顔は生き生きとしている。
熊本地震ではふれあい喫茶をやり、参加費100円をもらった。
「自治体の仮設住宅でお金とるってどういうこと!」とかみつかれた。
「ではいつまで無料にするか、期限を考えてる? 無料でやってると、近隣商店の弊害になると言って、いずれ禁じることになる。そう言われると支援者はすごすご引き下がることになる。近所には商店もない。原価250円かかる飲食物に100円だから迷惑というのは欺瞞」と訴えた。
住民とディスカッションして価格も決めたらいい。
珠洲市でも、サロンにずらりとならばれると大変だから、10円でも100円でも有料制にしましょうと提案した。その売り上げは自治会に寄付をする。私たちがいなくなったときに、そのスタイルが共助として残れば、なにか生みだす力が芽ばえるのでは、と考えた。
阪神のとき、あれもこれもとやってもらった地域と、自分たちが動いた地域ではその後の町づくりのフットワークはまったくちがった。
私は今神戸にいるけど、学生ボランティアが輪島に入っている。彼らに雪かきのやり方をオンラインで教えて、区長さんたちに確認して、独居高齢者宅で明日は朝から雪かきをする。仮設住宅の通路につもった雪をおろす作業もある。
学生は去年1月から6大学・高校の防災科の子たちが入っている。彼らは座学はばっちりだが、フィールドの経験はとぼしい。かれらは自治体職員をめざしている。
被災者の気持ちをくみとる力が大事だから「支援のしかたを教えてください」と教えてもらえ!」と言っている。
「困ったことはありませんか」といっても正常性バイアスが働いて、「別に大丈夫です」となる。「どうやってやったらいいですか」と教えをこうと考えてくれる。
人道的支援とはなに? 抽象的に考えるのではなく、被災者になぜ確認にいかないのか。
指定避難所は自治体によるが、指定外の避難所のほうが自由でのびのびと、食べ物をもちよってあたたかいものを煮炊きしている。指定避難所でそれができないのはなぜか? そこにいる人がなにを求めているかを聞くことから「人道的支援」がはじまる。
暮らしは女性が担っている。彼女らの話をききながら、「必要なものは?」と聞いていく。
「食」はアルファ化米よりも離乳食が大事。離乳食ならだれでも食べられる。
医療は弱者優先。高齢者・病人・障害者だけに照準をあてる。1日にけがをして、8日間おなじガーゼだった若者もいた。交換してあげたらよろこばれた。
私は、飲食物と医薬品をたくさんもっていく。工具、ポータブル電源も。
人の裂傷ぐらいは縫える。ガーゼも消毒薬もある。
パーキンソンの患者がいて、オンラインでドクターに相談したら「薬は飲ませないで」と言われた。医療関係者もオンラインでつながってもらえる。
AMDAや日赤は聞き取りばかりで、湿布1枚もってきてくれなかった。「また来ますから」と看護師は言うが、次にきたときは情報が共有されず、湿布1枚ない。
衛生も重要だ。避難所で泥靴で行き来していた。土足禁止にして、足下の消毒できるものをもっていった。だが市の職員がなかなか受け入れてくれない。必要な順番は、飲食物→医療→介護→衛生管理→住環境→着替え。
行政発表の被災者救済措置の書類は、避難所の内外のわかりやすいところに掲示板を設けるべき。避難所の外の人にも目につきやすい場所に掲示する必要がある。避難所内外の人が交流できる場であるべきだ。
阪神で被災したとき、祖母、母、私が避難所にいくとあふれかえっていた。「場所はないよ、帰り帰り!」と言われた。そうやって、余儀なく避難所外にいる人がいる。
行政機関はまず、部屋とテーブルを用意して、いろんな人をほうりこめばよい。だれかが中心になって渦が回りはじめれば形になる。
「空き巣が増えているからボランティアを入れるな」などと言うが、たいした犯罪は起きていない。「彼らもプロなら、他府県ナンバーできて壊れた家に入ったりしません」と警察も言っていた。
だいたい、犯罪は地元で起きている。石巻でも知り合いの若者がATMをこわしてまわって逮捕されていた。よそから犯罪者がくるのはまれだ。くるとしたら、エアコンの室外機や金属がほしい、というぐらい。
能登はボラは少ないけど、私たちも撤収時期がきている。地元で救済する力をもっている人がいる。共助という形を担ってもらう。外部からの支援グループ6~7つと、県内で4つのグループと関係している。ほぼ女性。こうやったら楽しいんやない? こうやったら? とノウハウ。就労支援や単純な支援活動、仮設の人の共助。そういう人がいるのがせめてもの救い。
▽丸森宮城 斉藤百合子
被災者側の視点…たりないぐらいがちょうどいい、地元の人がどれだけかかわるのが大切だなぁと思う。お客さんになっちゃうとだめ。自分たちでやると手を出しやすくなる。防災士をとって、行政じゃなくて自分たちがやるんだ、と知った。
▽金田
弱い部分をみせて、やってもらえる。困ったおっちゃんキャラでええんちゃいますか。見学で能登に来る人、ウェルカムです。手伝ってもらいますけど。
▽平時は? 金田
コミュニティに若い世代が入ってこない。好む内容になってる? 出番をつくってやる。活躍の場をつくる。地区防災「楽しいからやってるんや」と。具体的に楽しいものをいれたらよいのかも。