環状島=トラウマの地政学<宮地尚子>

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■みすず書房251226
 DVやいじめなど、トラウマになる被害が深刻な人ほど強く発言する--と、トラウマと発言力の関係は中心が屹立する富士山のような円錐形と考えられがちだ。でも実際は、トラウマのただなかにいる人や死者は声をだせない。中心は陥没している。そんな気づきからドーナツ型の「環状島」というモデルを生みだした。
 外海があり環状の島があり、中心に内海がある。内海の中心がトラウマになる経験の中心であり、陸地部の高さが発信力だ。
 「内海」は声を奪われた死者や犠牲者だ。その周囲の「内斜面」にあがると発言が可能になる。原爆被害の同心円図に似ている。爆心地は語る人はいない。ちょっとはなれて、被害から生き延びた人たちがいるのが内斜面であり、そこにいる人たちは当事者としての「仲間」だ。
 「外斜面」は直接被害をうけていない支援者=「味方」を想定している。味方だけど当事者ではないから「逃げる」という選択肢がある。中心からはなれると語りの強度は落ち、最後は「外海」に没する。「外海」は傍観者や無関心層だ。

 日本初のセクシャル・ハラスメント裁判の原告だった晴野まゆみは全面勝訴したが、裁判後、味方の弁護士や支援者との間のいざこざで深く傷つく。
 支援者から「清廉潔白な理想の被害者」を演じることをもとめられる。被告側の男性証人のひどい発言に耐えかねて裁判所で平手打ちを食らわすと、弁護団や支援者から謝罪することを強要された。裁判体験を男性週刊誌に書こうとしたら「男性週刊誌に書いたら、せっかくの裁判がけがされる」と支援者に言われた。
 当事者と支援者はさまざまな差異をもつ。団結を重視するほど差異は抑圧される。対立して差異を表にだすと「裏切り」と非難される。
 「外斜面」の人間は「味方」だけど「内側」の「仲間」ではない。「仲間」と「味方」は、「内側」と「外側」という意味で決定的なちがいがある。
 「仲間」だと思っていた人が、実はよそ者にすぎないと気づいて、実際には「味方」なのに「裏切られた」とつながりを断ってしまうとか、逆に、何らかの運動で内側に入れてもらえたはずなのに、ある時点から外側のようにあつかわれ、疎外感で運動を去っていく、といったことがしばしばおこる。「仲間」と「味方」のちがいを認識する必要があるのだ。
 ひとつの事件でも、さまざまな環状島を想定できる。晴野のケースでも、「女性差別」の環状島、「人権問題」の環状島、「労働問題」の環状島……などが考えられる。ある人との関係においても、ひとつの環状島では被害者同士であり、別の環状島では被害者と傍観者の関係であるということがおきる。複数の環状島を駆使すれば複雑な関係もときほぐせるのかもしれない。
  晴野のように、環状島のなかで雄弁だった人ほど、環状島がもたらすアイデンティティから身をはがすのがむずかしい。与えられた課題を一身に背負い、単一的アイデンティティにのみこまれて苦しむ。筆者は民族教育や同和教育における若者を例にあげるが、有事法制をめぐるSEALDsの若者や、香港の雨傘運動の女の子もそんな苦しみを背負っているのかもしれない。

 ポスト・コロニアリズムは、これまで普遍的とみなされてきた判断や知識が、ある種の特権を前提にした、マジョリティの視点からのものにすぎないということを指摘してきた。ある問題を、誰が、どんな立ち位置から、誰に向かって語るのか、というポジショナリティがしばしば問題にされた。
 その例として、FGM(女子割礼)をあげる。欧米や日本のフェミニストは「女性への暴力」ととらえ、根絶しようと運動をおこした。これにたいして、現地の女性や専門家は反発した。「同じ女性」というけれど、あなたたちは「第一世界の女性」であって、かならずしも当事者性(被害者性)を共有しないのではないか……と。
 フェミニズムについては、市川房枝が戦中、戦時体制が女性の社会参加を促したことを評価していた、という事実を思いだす。「女性問題」でくくることで、もっと大きな問題が捨象されてしまう。そういう意味ではFGMをめぐる現地の女性の反発にぼくは共感してきた。
 だがポジショナリティは、「外斜面」の支援者(味方)に向けて「内斜面」が非難する構図だ。「外海」にいる無関心な人間や、ましてや敵には問いかけることさえできない。ポジショナリティを問うという行為は「外斜面」にいる味方を批判することであり、その人たちを「外海」に押し流してしまうおそれがある。実際、FGM論争後、欧米のフェミニストが他国の問題に取り組むのを避ける傾向がでてきたという。

 いじめやDVなどの被害者は、どこにいても加害者の視線から逃げられないように感じる。
 被害者の多くは加害者に「真の謝罪」を望む。真の謝罪は、加害者がもはや事件当時の加害者ではないことをしめすからだ。加害者が全能的な力をふるいつづける存在ではないと被害者が信じられたとき、被害者は過去の幻影から解放される。公害や戦時性暴力などの問題で「賠償より謝罪を」と多くの被害者が語ってきた。「謝罪」が「解放」の意味があったとは気づかなかった。

 ヒロシマへの原爆投下命令を下したイーザリーは、「廃墟と化した広島市と焼けて炭のようになって水面をただよう死骸の最初の写真」を見て、精神的なバランスをくずした。
 相手を敵だと思い、動物のような存在と思っているかぎり、加害のトラウマは起きない。被害者と目が合って「同じ人間」とかんじるとき、加害者もトラウマを負う。加害者がPTSDを発症するのは、人間を人間として認める力が残っていたからかもしれない……という。

 研究者は「外海」から上陸し「外斜面」をのぼり、じょじょに事情にくわしくなり雄弁になっていく。ところが「尾根」にのぼると強風が吹いて外側にぐらつき、「外斜面」をかけおりて傍観者にもどってしまう。あるいは「内斜面」をおりて悲惨さに圧倒されて声が出なくなることもある。
 研究者は論文を書くから、当事者との同一化幻想はかならず破綻する。論文に何をどこまで書くか、書いたものを当事者に送るべきか、どういう反応をうけるか……となやまされる。これは報道でも同じだ。書いた相手の反応が不安で、記事を送るのをためらうこともあった。
 当事者が学問をすることは「解放」を意味することもあるが、逆にトラウマをもたらすこともある。たとえば先住民の子どもが教育を受けることがマイノリティとしての自己否定やコミュニティの崩壊につながることがある。過疎地から都会の大学に進学して故郷に帰ってこない、という日本の風景もおなじだろう。

 トラウマの中心にはつねに「内海」という表現できないものがある。「表現できない」ものをあつかうには、文学などの想像力も必要になる。
 トラウマ研究は、さまざまな切り口によって、環状島を浮かび上がらせるものだから、芸術もふくめた学際的なアプローチが必要となる。「ある学問だと何が見えて何が見えなくなるのか……を明確にする「比較学問学」のような分析が重要性を増すかもしれない」という。
 筆者はこの本を書いた経緯を次のように記す。

 --私の脳にさまざまな形で住みついた人たちが、なかで成長を続け、刺激をあたえつづけ、私の身体をとおして、キーボードを打つ手をとおして、伝えたいことを伝えようとしてくれたのかもしれない。
……自分のなかに他の人たちが生きていることの豊かさ。その人たちが不思議な交流をはじめることのおもしろさ。自分が交流の媒体となることの喜び--

 他者の声が「私」をとおして文字になるというのは詩人の感覚だ。
 既存の学問の枠を風のようにのりこえることで、この本がつくられたということがよくわかった。

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▽8 「逃げる」という選択肢があるぶん、支援者や研究者たちが関わりつづけること、支援者や研究者としてサバイブしつづけることはより難しいともいいうる。支援者の消滅は、しばしば当事者のサバイバルの可能性の消滅と直結する。
▽12 内海の「波打ち際」から「内斜面」の陸地にあがると、言葉を発することができる者たちになっていく。のぼるにつれて言葉は力を増し、雄弁さは「尾根」でピークに達する。当事者は尾根の内側、非当事者は外斜面に位置するとおおまかに考えてよい。
▽15 中心に近いものほど発言の権利がある、すべきである、しているにちがいないという思い込みが人々の思考を縛っている。……
▽22 臨床現場からみると、、なんの補償も受けず、加害者もなんの処罰もされていないケースのほうが一般的であって、被害が認められ、救済されるというのは例外的である。なのに「PTSDという診断が安易になされている」「PTSDが過大に評価され、法に混乱をもたらしている」……と警告を発する人がいる。
▽42 日本初のセクシャル・ハラスメント裁判 原告・晴野まゆみ 全面勝訴 だが裁判後は自殺さえ考える。味方の弁護士や支援者との間でおきたさまざまなな齟齬と傷つきのほうが深く作用していたように描かれている。
▽50 ……永松に平手打ちを食らわした後、弁護団や支援者からひどく非難され、謝罪を半ば強要され……賠償金をすべて支援団体に寄付しても、当然という顔をされる……二次会では「裏切った」と集中砲火を浴びる。
▽53当事者と支援者は共通点をもちながらも、さまざまな差異をもつ。……一致団結を重視し、……するほど、差異は抑圧される。対立して差異を表にだすと「裏切り」「反逆」と非難される。
▽57 「清廉潔白」な理想の被害者像を優先。「そんな男性週刊誌に書いたら、せっかくの裁判がけがされる」という支援者の言葉も、ある意味では性についてのタブー意識に縛られているといえる。
▽73 書かれていた「傷」以外に「内海」に沈んでいるものがあってもおかしくない。……書かれていないことがそこにあるかもしれない、ということを念頭におきつつ、書かれなかったという選択を尊重することでじゅうぶんである。【内海、を意識することで、書かれていないもの、への想像がはたらく】
▽75 「女性差別」の環状島、「人権問題」の環状島、「労働問題」の環状島……晴野とある個人との間で取り結ばれる関係も、思い描かれる環状島によって、被害者同士であったり、被害者と傍観者だったりというふうに、それぞれ異なっていた……
一人の人間の体験についても、ひとつの事件についても、複数の環状島が想定しうるという発見は、私自身にとっても驚きであった。
▽82 「セクシャル・ハラスメント」というとらえ方ができたからこそ、彼女の訴えをきっかけに大きな環状島が形成されていったことはまちがいないだろう。
▽88 雄弁であるというのは、それが本人にとっては二番手、三番手の問題だからであって、核心となるトラウマはそのそばに隠れていることが多い、という気づきも生まれた。【環状島のかたち】
▽97 「外斜面」の人間は「味方」ではあるけれども「内側」の人間=当事者ではない。「仲間」と「味方」は似ているようだが、「内側」と「外側」という意味では決定的なちがいをもっている。
 今まで自分の「仲間」だと思っていた人が、実はよそ者に「過ぎない」と気づいて、実際にはまだ「味方」であるのにもかかわらず、裏切られ感を抱き、つながりを断ってしまうということがよく起こる。逆に、何らかの運動にかかわって内側に入れてもらえたはずなのに、ある時点から急に自分が外側の人間のようにあつかわれ、疎外感を感じて運動を去っていく、といったこともおきやすい。
【よそ者だけど味方、という認識の必要性】
【仲間と味方のちがい〓】
▽106 環状島のなかで雄弁に発話して注目を浴びた人ほど、環状島がもたらすアイデンティティを相対化し、そこから身をはがすのは難しい。マイノリティのなかでも意識の高い若者や優秀な学生をとくに襲いやすいだろう。まじめで良心的であろうとすればするほど、自分に与えられた課題を一身に背負おうとして,単一的アイデンティティにのみこまれて苦しむかもしれない。
……民族教育や同和教育が、こういった重荷を若者たちに背負わせて……若者たちにとっては酷だったのではないか。
【安保法制のときの〓の若者たち、香港の天笠運動の女の子】
▽112 アイデンティティとは、つくられてきたものであり、変わっていくものであり、お互い葛藤しあったり矛盾しあう雑多な要素からその時々で立ちあがってくるような者であるということの確認。
 アイデンティティの「構築性」「変容」「多元性」を「投企制」「暫定性」「部分性」というふうにとらえなおし……
▽122 トラウマが多くの場合、個人のアイデンティティに深い亀裂をもたらす。トラウマと複合的アイデンティティには親和性がある。日常をヤシ過ごしながら、なんとか生きていけるのは、切りはなしや健忘といった、トラウマが全面性を帯びないための心的装置のおかげでもありうる。
▽127 あなたは何者として語るのかというアイデンティティの政治に加え、ポスト・コロニアルな状況でしばしば問題になり、激しい論争になるのが、ある問題を、誰が、どんな立ち位置から、誰に向かって語るのか、というポジショナリティの問題である。
……FGM(女子割礼) 欧米や日本のフェミニストたちは「女性への暴力」ととらえ、根絶しようと運動をおこした。これにたいして、現地の女性や専門かから批判がなされた。「同じ女性」といった形で雄弁に語るけれども、あなたたちは「第一世界の女性」であって、かならずしも当時者性(被害者性)を共有しないのではないか。
▽131 <内斜面>の当事者はその問題から逃げられない。<外斜面>は外側へ向かう力のほうが強い。熱意をもちつづけなければ、とどまれないし、熱が冷めればいつでも去っていくことができる。「逃げられるかどうか」という選択の余地の有無、「そこに居つづける」ことの必然性の有無の差が、ポジショナリティをめぐる問いの根底にある。
……ポジショナリティは<外斜面>の人に向けて<内斜面>の人から問われる。
▽133 ポスト・コロニアリズムは、、これまで中立とか普遍的とみなされてきた判断や知識が、いかにある種の特権を前提にした、マジョリティの視点からの判断や知識でしかないのか、ということをくり返し指摘してきた。
▽135 ポジショナリティを問うという行為は、支援者や救済者として近づいてこようとする人たち、<外斜面>の人たちにたいしてできることであって、あからさまに攻撃をしかける者や、<外海>にいる無関心な人間には問いかけることさえできない。
……ポジショナリティを問うという行為は<外斜面>にいる者を批判対象にすることでで、その人たちを<外海>に押し流してしまう危険性がある。
……FGM論争も、それ以降、欧米のフェミニストたちが他国の問題に取り組むのを避け、国内志向が強まったとしばしば指摘されている。
……ポジショナリティの問いかけは、<外海>からみれば、「内輪もめ」にしかみえない。
▽156 加害者の臨在感や偏在性は、いじめに限らず、対人的暴力によるトラウマのほとんどにあてはまる。DV被害者は、家の何処にいても加害者の視線から逃れようがないように感じる。
▽158 済州島4.3事件の経験をずっと言葉にできずにきた金時鐘は、「思いおこそうとするとかたまりのまま、わっと押しあがってくるから、言葉にならない」……言葉にならないほどの大きなかたまりなのに、少しずれると、シミにしか見えない経験。真上からしか見えない傷。被害者にしかわからない臨在性と被支配感。
▽164 被害者はたいてい、加害者に真の謝罪を望む。真の謝罪は、加害者がもう事件当時の加害者ではないことを示し、そこには二度と戻らないということの宣言だからである。<ゼロ地点>の上空で全能的な力をふるいつづける存在ではもはやないということが示され、被害者もそれを信じることができ、過去の幻影から解放されるからである。
▽166 ヒロシマへの原爆投下の命令を下したイーザリーは、「廃墟と化した広島市と焼けて炭のようになって水面をただようしがいの最初の写真」を見て、精神的なバランスをくずすようになる。
……相手を敵だと思い、劣っていると思い、人間以下の動物と思い……かぎり、加害のトラウマは起きない。しかし……被害者と目が合うとき、……加害者もトラウマを負う可能性がある。……PTSDを発症する(発症できる)のは、人間を人間として認める力が残っていたからかもしれない〓。
▽174 研究者のあなたは<外海>から上陸する<斜面>をのぼり、じょじょに事情にくわしくなり、何か声を上げなければと思って、雄弁になっていく。<尾根>は風が強くて、ふらっと外側にぐらつく。<外斜面>をかけおりて傍観者にもどる……あるいは内側にむかう。悲惨さがくっきりと見え、あなたは声が出なくなる。……
▽178 当事者と研究者の間の同一化幻想は必然的に破滅する。論文に何をどこまで書くのか、書いたものを当事者に送るべきなのか、どういう反応をうけるだろうかということに早晩なやまされることになる。〓ほんまに〓
▽182 学問の営みこそが、トラウマをもたらす直接の原因であることもある。先住民の子どもが、学問をすること(教育を受けること)が主流派への同化政策とむすびつき、マイノリティとしての自己否定や自己憎悪、コミュニティの崩壊につながってしまうといった例があげられる。〓(過疎地から都会の大学に進学して帰ってこない、という例も)
▽学問から排除されていた人たちが、「自分探しの旅」から「ネイティブ人類学者」への道をたどろうとし、「当事者の時代」を堂々と宣言するようになっている。そこには解放があり、同時に苦悩がある。
▽196 水俣病に関して、疫学者の津田敏秀は原因をメチル水銀と考えるべきではなく、「水俣湾岸の魚介類の摂食」と捉えるべきであり、食中毒として認識して対応していれば、これほど被害が拡大することはなかったと指摘している。
(〓なるほど)
このとらえ方は、「原因物質が究明されないかぎり対策を取ることができない」と言いのがれをしてきた行政の怠慢を暴き、それに加担してきた「権威ある」医学者たちの発言や行動、「一定の症状がそろわないと患者は認定できない」という論理の誤りを、科学という同じ土俵で暴いている。
▽200 トラウマをめぐる真実がつねに<内海>という表出不能性を中心に抱えて存在するかぎり、文学なども必然的……
 異なる複数の切り口によって、立体的に<内海>を、環状島を浮かび上がらせるには、なるべく学際的で開かれたアプローチがトラウマ研究に望ましい。(〓なるほど)
……今後、ある学問だと何が見えて何が見えなくなるのか、それらがどれほど可変的なのかを明確にする「比較学問学」のような分析が重要性を増すかもしれない。
▽203 エルサルバドルの心理学者マルティン・パロ牧師 「解放の神学」を心理学に結びつけ政治的抑圧と闘ったが1989年にエルサルバドル政府軍に殺された。
▽204 他の人には見えないものが見えるという能力をもつ人に対して、権力者や支配者は寛容ではない。魔女裁判も、薬草の知識や分娩介助など治療的技量をもつ農民階級の女性が組織化することに対して、協会や社会の支配階層が恐怖や嫌悪、敵視を募らせたためにもたらされたという一面がある。(〓guate)
▽2001年にDV防止法制定は意義があったが、相談員のほとんどは非常勤で、将来の身分保障さえない。いつまでたっても専門家とみなされず、専門職や大学教職などへの道は開かれていない。
▽205米軍の心理学者デーヴ・グロスマン「戦争における『人殺し』の心理学」 兵士の発砲率や殺傷率を上げるためのノウハウや、兵士がトラウマを負わずにすむ方法をも学ぶことができる。
▽218 私の脳にさまざまな形で住みついた人たちが、なかで成長を続け、刺激をあたえつづけ、私の身体をとおして、キーボードを打つ手をとおして、伝えたいことを伝えようとしてくれたのかもしれない。
……自分のなかに他の人たちが生きていることの豊かさ。その人たちが不思議な交流をはじめることのおもしろさ。自分が交流の媒体となることの喜び。
……自分のなかの理系の頭と文系の頭、両方を使えたことが喜びだった。

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