京都ボヘミアン物語⑤春歌は民衆のエネルギーの源

  • URLをコピーしました!

「定番のふたつの猥歌」をネットにのせたら、「なつかしい!」「こんな歌もあったぞ」「その歌詞はまちがっとる!」「それを公開するのはまずいんちゃう?」といった反響がぞくぞくとよせられた。
 なぜ猥歌・春歌の話になると、いい年こいたおっさんが、かくも元気になるのだろう?

目次

幼児は「うんち」が大好き

 幼児はうんちやチンチンの話が大好きだ。「うんち!」とさけぶだけで1時間も2時間もわらいころげる。
 幼いころ、ふとんのなかでおやじに昔話を朗読してもらったけど、何度も何度もねだったのは、和尚さんが素っ裸で、蓮の葉でチンチンをかくしてにげていく……という話だった。ストーリーの記憶はないけど、なぜかそのシーンだけは今もおぼえている。
 ジクムント・フロイトさんによると、この年代の幼児は「肛門期」という発達段階にあり、子どもにとって肛門は性感帯であり、排便すると快感をかんじるらしい。
 5歳のときに放映された「帰ってきたウルトラマン」で、ナックル星人に敗れたウルトラマンが磔にされるシーンをみたとき、なぜかチンチンが大きくなった。「なんでだろ? ぼく、病気かなぁ」とおやじにみせたら、「ちょっとだけ大人になってきた証拠だから大丈夫」といわれた。幼児でも、ちんちん=快感という感覚があったんだな。

ベッドシンはプロレスラー?

 思春期がちかづくと、興味の対象はうんちから「性」になる。
 ぼくが最初に「エロ」の存在にふれたのは小学5年の林間学校だ。
 ませガキたちは「ベッドシン!」「ベッドシン!」とさけんで女子の部屋にしのびこもうとした。ぼくは「ベッドシン」の意味がわからず、アントニオ猪木と死闘をくりひろげたタイガー・ジェット・シンのことだとかんちがいした。女子とプロレスをすることを「ベッドシン」というのかぁ、たのしいだろうなとおもったが、成績のよい優等生だったからみずからは行動にうつせなかった。
 肉体がくんずほぐれつする本当の「ベッドシーン」を目の前にみせられても、当時のぼくはたぶん「パンツをはかないプロレス」ぐらいにしかおもえなかったことだろう。
 中学2年にもなると、荒川の土手に暴走族がすてていく「ビニ本」をひろいあつめ、ポリ袋につつんで草むらにかくすことをおぼえた。
 この原稿をかいてしばらくして「ビニ本」がすでに死語になっていることに気づいた。
 ビニ本は、立ち読みをふせぐためビニールで包装されたエロ本で、1970年代半ばから80年代に流行した。当時は警察がヘアヌードをきびしくとりしまっていたため、ぬらしたティッシュでかくしたり、極薄の下着をつかうなどの工夫をこらしていた。
 1991年の篠山紀信撮影の樋口可南子の写真集「water fruit 不測の事態」をきっかけにヘアヌードが事実上解禁され、さらに過激なアダルトビデオが登場することでビニ本はすたれていったようだ。

 ぼくの家にはビデオがなかった。小さなテレビにイヤホンをつけ、ふとんをかぶって「火曜サスペンス劇場」や「土曜ワイド劇場」にチャンネルをあわせ、今か今かとヌードシーンをまちつづけた。おかげで主題歌だった岩崎ひろみの「聖母たちのララバイ」(1981年)を丸暗記してしまった。
 浦和高校という男子校に入学して、先輩や浦高OBの先生から猥歌をおしえられた。そのおもしろさに夢中になった。大学にはいり、大文字キャンプでみんなでうたってさらにはまった。

農の春歌は生のよろこび 女工の春歌は悲鳴

 本当につらく悲しいとき、「未来少年コナン」や「アルプスの少女ハイジ」などのアニメはけっこうなぐさめになる。でも「いやしの音楽」は、媚びをうられているようであざとくおもえて、耳にするのもいやだった。そんなときに口をついてでてきたのは

♪やりたいな、やりたいな……京女の姉ちゃんとトランプやりたいな

 なんでこんなときに? おれってよっぽどスケベなんかな、と首をひねった。

 50歳のおっさんが夢中になれる猥歌ってじつは意外な力を秘めているのかも。そうおもいなおして、20年以上前にかった2冊の本を段ボール箱の底から発掘した。
 野坂昭如が1971年ごろにかいた文章をまとめた「にっぽん春歌紀行」と、竹中労が1980年代半ばにかいた「にっぽん情哥考」だ。
 ふたりとも、猥歌をもとめて日本中をあるいた。
 そのなかで野坂はきづく。
田植え歌などの農作業の民謡は、労働の単調さを軽減する効果だけでなく、はたらくよろこびや収穫祈念の意味もあり、作業の経過におうじて変化した。
 静岡県川根町(島田市)の茶どころは、性には開放的で、昭和になっても夜這いの習慣がのこっていた。「高尾まいり」では、若い男女が大部屋に泊まり、お互い異性を知ることが習慣となっていた。娘たちは開放的で、茶畑でみつけたいい男を誘惑する歌もうたう。春歌は、おおらかな生のよろこびに満ちていた。
 一方、「女工哀史」に代表されるきびしい労働にあけくれた機織り娘たちの春歌は、直接的な卑猥さだ。

〽おめこしてもよい、させてもよいが、中にとどめる子に困る、
〽おまえそんなにもとまで入れて、中で折れたらどうなさる 
〽ありがたいぞえまた日が暮れる、おかげでおめこがまたできる。

 ここでの性のいとなみは、苛酷な労働からの逃避であり、むしろ悲鳴にちかい。農耕から機械にうつることで、人間らしさがうしなわれていく典型がみえると野坂は解説する。

春歌は「替え歌」ではなく「元歌」

 そうやって、さまざまな民謡の節をつかって「性」をうたいあげる替え歌をつくられていったのかぁ……とよみすすめると、とんでもないかんちがいだったことに気づいた。
 竹中によると、昔はほとんどの民謡は春歌・猥歌だった。大半の民謡の元歌は春歌なのだ。たとえば秋田音頭はもとは春歌の親玉であり、夜這いから夫婦生活、老人セックスまでうたっていた。
 甲州ではこんな歌がある。

〽山のあけびは 何ょ見て割れる 下の松茸みて割れる 
〽娘十七八は 渡しの舟よ 早く乗らぬと人が乗る

 年頃の娘が処女であることは軽蔑の対象でしかなかった。かしこい娘たちは何人も毒味をしてから生涯の夫をえらんだという。
 ねぶた祭りでは、鍋をかぶって戸板を楯にして石合戦を展開し、祭りのあとは乱交パーティーのようなものだった。
 明治以降、政府は「公序良俗」を強制し「歌垣(かがい)」のフリーラブを弾圧した。だが公序良俗が全国を支配するようになるのは戦後になってからだ。
 秋田の増田町(2005年から横手市)では、旧正月に若者たちは夜通し酒盛りして、娘たちも空が白むまであそんだ。新生活運動で昭和35(1960)年に旧正月の風習はなくなった。
 高度経済成長による繁栄とひきかえに、日本は半世紀たらずのあいだに土着の歌をほとんどうしなってしまった。
 春歌・猥歌を排除することは、民衆の生きる力の根源を否定することだった。

 以上、50歳すぎのおっさんが下品な猥歌を文章にして、時に堂々とうたうための言い訳さがしでした。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次