■森話社260108
熊野には矢倉神社・高倉神社という名の無社殿の神社が多い。仏教寺院の影響で社殿をもつ以前の原初の信仰形態を残しているという。
なぜ熊野に無社殿の神社が多いのか。なぜ矢倉神社や高倉神社と名づけられたのか。
筆者は、それらの神社を片っ端からたずね、「紀伊続風土記」などの文献で過去からの変遷をたどる。
膨大な神社を並行して紹介するから退屈な部分もあるのだけど、徹底的に歩くことで見えてきた事実は刺激的だった。
まず、1839年に33年かけて完成した「紀伊続風土記」から牟呂郡の「矢倉神社」をピックアップし、なぜ「矢倉」なのか検討する。
「矢」は谷であり「クラ」は岩壁や岩塊を意味する。谷筋から岩壁を見あげるような場所で、樹木や大岩を崇めたところから命名されたらしい。地主社とか山神森といった拝所が、ありがたい名をもとめて改称したのではないかと結論づける。矢倉系では、拝所に丸石をおく例も多いらしい。山梨に多い丸石信仰とのつながりも知りたいところだ。
「森全体がご神体なので、樹木を伐ること、持ち出すことは禁じられていた。『社を建ててはいけないお宮だ』と聞かされた」
「(社殿を)建ててはいけない。建てると不漁になる」
「鳥居を建ててはいけない」……などなど、たんに「原初的な形態」であるだけではなく、熊野では、無社殿であることに積極的な意味を見だしていたようだ。
赤木川流域に集中する「高倉神社」は高倉下命(たかくらじのみこと)をまつる。
神武が熊野に上陸して国つ神の攻撃で失神状態に追いこまれた際、高天原から刀剣が地上に落ちる夢をみた高倉下(たかくらじ)が剣を神武にさしだすと、軍勢は目覚めて敵をたおした。
刀剣の献上は、軍事的、政治的服従を意味する。高倉下は物部氏の一族だから物部氏が天皇家に帰順したことを物語るという。
高倉下の父の饒速日命(にぎはやひ)は、神武に先だって大和をおさめていた物部の祖先神だ。神武の仇敵・長髄彦(ナガスネヒコ)の妹を妻にしていた。高倉下が熊野にいたのは、大和盆地の物部一族を代表して鉱産資源をさがしにきたのではないか……と筆者は考える。神武にとって功績のあった高倉下だが、その後、日本海の越の国に左遷され、弥彦神社の祭神になった。
本宮大社の大斎原の地番は「本宮町本宮字高倉地1番地」であり、高倉下は本宮周辺の多くの神社の祭神になっている。新宮の神倉山には「高倉下が霊剣を授かったところ」という伝承がある。
近世の「神道の巻き返し」「国学の興隆」「記紀神話の見直し」で地元に根づいていた「高倉下伝承」に光があたり、自然信仰の社に「高倉」の名がつけられ、周辺に勧請されていったのではないか、と筆者は想像する。
神社の名前や伝承は意外に新しいのだ。
古座川町の河内神社は、神社のある小さな島を舟がめぐる「河内(こうち)祭」で知られている。河口沖1キロの九龍(くろ)島と鯛島とを結ぶ祭りであり、海上から「寄り来る神」を目標となる河口の島でむかえ、さらに上流の聖地までおつれする、という意味がある。河内祭の前、高池下部の獅子屋台をのせる獅子伝馬は船体を海水で浄めるため九龍島に行くという。九龍島はカヌーでわたって取材したからそんな意味があったのか、と勉強になった。
大昔、海辺を移動しながら漁をして暮らしていた人々が、稲作の伝来とともに定住し、農業または半農半漁の生活に変わった。住民たちの視線も「海から陸へ」から「陸から海へ」と変化した。海への眼差しは祖先がやってきた理想郷「常世」へのあこがれとなり、、海から「善きもの尊きもの」が寄り来るという信仰になった。徐福や神武が熊野に上陸したという伝承から、浦々に臨時収入をもたらす「寄り鯨」まで、寄り来る神をむかえる精神がうけつがれていた。
……と、結論づけている。
漁撈のための丸木舟をつくるには、太い木が必要だ。大木を海岸まで運ぶより、山間の川沿いで船の形に加工してから河口まで運ぶ方が効率的だった……という記述も、熊野の山奥にある漁民が信仰する神社の意味を示した。
本に登場する郷土史家の多くが私も取材でお世話になった人だった。もっと時間をかけて取材していればよかった、と思った。