小豆を干す秋
安達太良山の乳首のかたちの頂上が澄み切った空にくっきりそびえ、白い雲が左から右に流れていく。
11月はじめ、二本松市の阿武隈川沿いにある大内信一さんと督さんの畑を訪ねると、真夏に汗だくで草抜きをした小豆は刈りとられ、ビニールシートの上で枝のままカラカラに乾いている。まもなく脱穀して赤い豆をとる。北海道を冷害が襲うと値段が1.5倍に高騰して「赤いダイヤ」と呼ばれるが、温暖化の影響か、近年はそんなこともなくなったという。
ビニールハウスでは、ソバや夏の冷や汁をつくるエゴマを木の棒でたたいて脱穀している。実りの秋なのだ。
太陽熱消毒で雑草を防ぐ
今回は人参の収穫を体験した。
ゆるい斜面に広がる1反(10アール)ほどの畑には、パセリに似た細い葉が生い茂っている。
本来は12月に葉が枯れてから収穫するが、二本松有機農業研究会でつくっている「有機人参使用 まるごとジュース」の材料が不足して早めに一部を掘ることになった。
「本当は1月ごろが一番おいしい。今の人参はまだ甘みが足りないけど、しかたねえ」と信一さん。
抜いた人参をポキッと折って口に入れてみた。スーパーの人参になれている舌には果物のように甘く思える。
種まき前の7月末、雑草を防ぐために畑にビニールシートをかぶせて2週間ほど「太陽熱消毒」をする。高温で土中の雑草の種子や害虫の幼虫、病原菌を殺す。除草剤を使わない有機栽培では欠かせない工夫だ。
それでも夏は雑草が伸びて芽吹いたばかりの人参をおおってしまう。5人で半日かけて草引きをした。この畑は、大内さんのもとで有機農業を研修する東京出身の20代の大島慶子さんが担当している。
「太陽熱消毒をしたのにすぐ草だらけになって呆然とした。みなさんの助けがなければとても間に合わなかった。自分でつくった、なんてとても言えません」と恐縮していた。
昔の土層の上に安達太良山の火山灰が積もったという土はやわらかい。スポッ、スポッと気持ちよく抜ける。
やわらかい土質を生かして、周囲には山芋やゴボウも植えている。折らずに収穫するにはまわりを深く掘らなければならない。
「ゴボウ掘りは農業じゃない。土木工事だ」と信一さんは笑う。
3人で2時間かけて1反の畑の1割ほど収穫すると、鎌で葉を切ってコンテナに入れる。
面積あたりの収穫は米の3倍
ジュースにする人参は女性たちがひとつひとつ手作業で皮をむく。少しでも皮が残ると賞味期限が短くなってしまうからだ。小さなものや二股になったものは皮むきが大変だから、大きくてきれいな円錐形のものをジュースの材料にする。
3時間半でコンテナ13箱、約250キロになった。人参は化学肥料などを使う慣行栽培では1反(10アール)当たり3トンとれるが、有機栽培では1.5トンから2トン程度。ちなみに米は全国平均で1反当たり535キロ(2020年)だ。
収穫した人参はかつては川でたわしでこすって洗った。冬は水が冷たくでつらい作業だった。
震災後、二本松有機農法研究会は約40万円の洗浄機を導入した。
コンテナ2箱分ずつ放りこむと、わずか数分でオレンジ色に輝く人参ができあがる。
「たわしで洗ってもこんな鮮やかにはならない。機械で洗うと薄い皮がむけるから、食べるときに皮をむく必要はありませんよ」と督さんは話す。
放射能対策、人参ジュースに賭けた父の決断
震災2年前の2009年から、新潟の業者に依頼して、余った人参を少しずつジュースに加工していた。
原発事故によって米や野菜が売れなくなったとき、信一さんはこのジュースに注目した。
チェルノブイリの経験で、人参やキュウリ、トマトは土壌のセシウムを吸収しにくい作物であることが明らかになっていたからだ。
「人参で勝負しよう」
二本松有機農業研究会の仲間に提案した。
「会長(当時)がそう言うなら」と、震災4カ月後の2011年夏にいっせいに人参の種をまいた。
息子の督さんはその方針に反対だった。それでなくても福島の米や野菜は風評被害で売れなくなっている。ジュースは保存がきくが、在庫が売れ残ったら大変なことになる。そう心配したが、信一さんはためらうことなく人参畑を広げた。
いま二本松有機農業研究会の7軒が1町(1ヘクタール)の畑で人参をつくっている。
ジュースは、すりおろした実を細かいメッシュフィルターでうらごしして果肉もまるごと瓶詰めする。酸化防止剤がわりのレモン果汁と梅エキスを加えただけ。砂糖を加えていないのに果物のように甘い。
「おやじは思い込んだら止められません。勝負師ですね。おれだったら怖くてあの判断はできなかった。自分で育てた人参の味に絶対の自信があったんでしょうね」と督さんはふりかえる。
甘柿の北限 「渋い」を失った都会人
作業の合間のおやつには柿をいただいた。平べったくて次郎柿に似ている。名前は「殿様柿」。殿様が食べるほどおいしい、という意味らしい。
東北地方の福島県や宮城県、山形県は「甘柿の北限」とされている。一説によると、夏場の平均気温が25度を上まわらないと渋みが抜けないという。二本松市の7月の平均気温は23.6度、8月は25.4度。だから甘柿の品種でも渋い実が混ざるのだ。
「肌がつるつるしてる美人は渋柿が多いんだ」と信一さんに言われ、大きな黒い傷の入った実を選んで口に運んだ。
人参畑を担当する大島さんは「渋い」と「苦い」は同じ味だと思っていた。だからはじめて渋柿を口にして驚いた。
「口中の水分がぜんぶ持って行かれる!って思いました」
都会のスーパーや八百屋には「苦い」山菜はあるけれど、「渋い」食品はない。身近で渋みを味わえるのは渋柿と栗の渋皮ぐらいだろうか。「農」の営みが消えた都市からは「渋い」という味覚も消えてしまったのかもしれない。
親子を離ればなれにしたら長生きできない
「人参掘りってけっこうきついですねぇ」と感想を述べたら、「里芋はもっときついよぉ。やってみる?」と、里芋掘りにも挑むことになった。
スコップで両側から掘ると、親芋のまわりに子芋が10個以上くっついた巨大なかたまりが姿をあらわす。芋と芋の間につまった泥を桑や竹の棒でこそげ落とす。力を入れすぎると子芋がバラバラとはずれてしまう。出荷する際はバラバラにするが、株ごと保存した方が長持ちする。
「親子は離ればなれにしない方が長持ちするんだ」と信一さん。
人間の家族について語っているみたいだ。
泥を落として重さを減らし、ビニールハウスに掘った穴に茎の切り口を下にして積み上げ、もみ殻で埋める。温度が5度を下回らなければ越冬できるから、暖地では畑で貯蔵することもできるという。春になったら、保存していた芋を畑に植える。ビニールハウスがないころは、山の斜面に横穴を掘って埋めていたという。
里芋を一列掘り出して泥を落とすだけでヘトヘトになった。泥落としが想像以上に手間がかかる。
里芋は東南アジア原産で縄文時代に伝わったとされている。
和歌山県田辺市の旧大塔村には、戦後直後まで正月に餅をつかなかった集落があった。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王の一行が鎌倉幕府に追われて落ちのびてきた際、農家の軒先にあった粟餅を請うたが村人が断った。後に大塔宮の一行だったと知って村人は深く悔い、その後は正月に餅をつくのをやめてしまった……と伝えられ、正月には里芋の親芋を2日間煮込んだ「ぼうり」を餅のかわりに食べてきた。
こうした「餅食わぬ里」の存在や、里芋が祭礼に供えられ、雑煮に里芋が不可欠とされた地域が多いのは、稲作が普及する前、里芋が主食に近い存在だったことを示しているという。
法事も慶事も野菜を「ざくざく」
お昼は、「ざくざく」という二本松独特の汁をごちそうになった。見た目はけんちん汁のよう。細かく刻んだ椎茸やごぼう、大根など野菜たっぷり。畑でとれたばかりの里芋は舌の上でとろける。野菜と昆布と煮干しのだしが溶け出して滋味豊かな味わいだ。
煮物に使った里芋や野菜の残りを細かく刻むことで野菜の端などもむだなく活用できる。
本来は、客の数が予想できない葬式の料理だったが、祝いや祭りにも出されるようになったらしい。葬式では生物の煮干しや色鮮やかな人参を避けることもある。
会津には「こづゆ」というよく似た汁があるが、こちらは貝柱を使う。
「こづゆは武士(上流階級)の食べ物、ざくざくは庶民の食べ物だ」と信一さんは言う。
大内さんの地域の葬式では、さくざくとともに、小豆を少なめにして赤い色をおさえた赤飯を出した。葬式を出す家には、親類が大きな桶に3升の赤飯を炊いて差し入れする風習もあった。
大内さん宅のぼたもちは、あんこがほくほくと香ばしくて太陽のにおいがする。
結婚式には餅、お彼岸や田植えのあとはぼた餅。稲刈りが終わると餅をふるまったという。季節ごとに彩りが変化する大内さん宅の料理を味わうと、年中行事と食べ物が密接につながっていたことが見えてくる。
ざくざく
▽材料(4人分)
・大根 5センチ
・にんじん 1/2本(100グラム)
・里いも 大3個(400g)
・ごぼう 1/2本(100g)
・生しいたけ 3個
・こんにゃく 1/2丁
・高野豆腐か薄揚げ 適量
・しょう油 大さじ2
・みりん 大さじ2
・煮干し 5匹
・こんぶ 7センチ
・水 6カップ
▽作り方
①鍋に昆布と煮干しと水6カップを入れる。
②材料を1センチ角程度のさいの目切りにする。細かいほうがよい。
③材料を鍋に入れて、火がとおったら、しょう油とみりんを入れて煮立たせて火を止める。