薄っぺらな正義感は目をくもらせる
シーサンパンナ州の中心都市、景洪からは宮本さんという長期旅行者としばらく行動をともにした。
何年も世界を旅し、アフリカ大陸を自転車で横断している。
移動の旅につかれると、ニューヨークなどに定住してレストランのウェーターや大工仕事をして旅費をかせぐという。
「1カ月程度の観光旅行をくりかえすのではなく、最低1年間の旅をしてみてください。『日本人』の目からはなれることで、世界の見方がかわりますよ」
宮本さんには、文化人類学や社会主義国の評価、世界の民俗文化など、さまざまなことをおしえてもらったが、ひとつだけ違和感をおぼえる話題があった。
どこの国の女性かきれいか、という話をしているときだ。
「圧倒的にアフリカの黒人がすばらしい。肌がきめこまかくて、情がふかくて。一度でいいから黒人女性をだいてみてください」
貧しい女性をものとしてあつかっているようにおもえた。
「途上国の女性をカネでかうというのは罪悪感をかんじてしまって……あまり気乗りがしないんです」
そうこたえると、宮本さんはちょっときびしい顔になった。
「うすっぺらな正義感は、ものを見る目をくもらせますよ。あなたが女を買おうが買うまいが、彼女たちの生活はかわらない。だったら彼女たちにじかにせっして、その現実を知るほうが意味があるとおもいませんか?」
予定どおりの旅は旅じゃない
それからフィリピンの話題にうつった。
宮本さんとすごしたのは1986年3月はじめだ。その1週間ほど前、フィリピンではフェルナンド・マルコス独裁政権がたおれる「エドゥサ革命」がおきていた。
2月7日の大統領選で、民間の選挙監視団体は、野党候補のコラソン・アキノの勝利と発表したが、マルコス大統領の影響下にあった中央選挙管理委員会は「マルコス勝利」とした。大規模な不正はあきらかだった。
アキノ陣営は選管発表をうけいれず、全国で反マルコスのデモがおこった。
フアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長が「マルコスを大統領とはみとめない」と表明し、マルコス体制をささえてきたアメリカ政府もマルコスをみはなした。
群衆によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコス夫妻は2月25日、米軍のヘリコプターで脱出し、アメリカに亡命した。
ぼくはすでに小説家の夢はあきらめ、本多勝一のようなジャーナリストをめざしていたから、フィリピン情勢は中国の新聞でもチェックしていた。
「あなたもジャーナリスト志望なら、ひとつの国の歴史が激変する場に身をおいたほうがいいんじゃない?」と宮本さん。
「上海からの帰りの船をキャンセルしたら、飛行機のチケットを買うおカネがないんです」
「大丈夫。香港ならばマニラ経由東京行きの航空券が2万円ですよ」
宮本さんは香港の旅行代理店の住所をメモしてくれた。
「予定どおりの旅なんて本当の旅じゃありません。人生だって、大学を卒業して企業に就職して、結婚して、定年退職して……なんて生き方はしたくないでしょ? すくなくとも私はいやですね」
そうだった。旅をつうじて、自分の安定志向をぶちこわすつもりだったんだ。
予定を変更して、昆明から広州にとび、香港では、英語がききとれなくてしどろもどろになりながらチケットを購入して、マニラ行きの飛行機にのりこんだ。
ぼったくりの白タクの洗礼
夕方、マニラ空港の税関をでると、無数の男がむらがってくる。
ぼくがリュックを背負おうとするとすかさずてつだい、「ヘイ、チップ、チップ!」。次はタクシーの運転手がハエのようにむらがる。
「ヘイ、マニラのYHまでいくのか? 200ペソ!」
ぼくは相場を知らないがとりあえず
「たかすぎる。80ペソだ」とこたえると、
「150ペソ!」
さらにねばって交渉して100ペソ(5ドル弱)にきまった。
運転席と助手席に男がすわり、ぼくは後部座席にのる。はしりはじめたとたん、助手席の男がふりかえり、「150ペソだ!」。
「それならここでおりる!」と抗議するが車はとまらない。見も知らぬ道端でおろされたらこまるけど、このまま拉致されるのもこわい。
最後まで「もう50よこせ」とくりかえし、YHにちかづくと「料金は100でいいが、チップがほしい」とねばる。交差点で減速した際、100ペソだけおいて車からとびおりた。ちなみに本来のタクシー料金は50ペソだった。
生きた心地がしなかった。
換金詐欺の手口
マニラの街をひたすらあるきまわる。有名なトンドのスラムの、どぶ川ぞいのバラック街には異臭がただよっている。でも子どもの表情はそれほど暗くない。
華僑の墓地は、それぞれの墓がどぶ川の家々の4軒分の大きさで、エアコン完備の墓もある。墓地とスラムをくらべるだけで貧富の格差がよくわかる。
夕方のリサール公園では毎日のように数千人がつどい、人差し指と親指で「L」(Liibertyの意味)をつくって、「コリー! コリー!」と連呼している。
吉田寮などの左派の学生のあいだでは「こんなのは祭りのようなもので革命じゃない。どうせ農地改革も実行されないよ」などと冷ややかな見方がつよかった。
だが、現地の熱気のなかに身を投じると、将来はみえないにしても、これはたしかに「革命」だとおもえた。
熱気にあてられてボーッとしながら、繁華街のマビニストリートでドルをペソに換金した。両替屋のおっさんが提示したのは1ドル21ペソ。銀行よりずっとレートがよく、30ドルが630ペソになる。「1枚、2枚……」と、おっさんといっしょにペソの札をかぞえてうけとり。10ドル札を3枚わたした。
YHにもどって宿泊代をはらい、シャワーをあびてからさっきのペソをかぞえると、300ペソしかない。200ペソたりない。
「くそー、なんでや!」
頭をかかえていると、日本人旅行者の黒田さんが声をかけてきた。
「典型的な詐欺だよ。種明かしをしてあげようか?」
彼とマビニストリートへもどり、再度30ドル換金することにする。両替おじさんが自分の手元で「1枚、2枚」とかぞえてこちらの手にわたす。ぼくが30ドルを男にわたそうとするのを黒田さんは制した。
「ペソの枚数をこっちでもう一度かぞえよう」
すると両替屋の男は「あ、ポリスがくる。いそげ! つかまるぞ!」。
黒田さんはそれを無視してゆっくりかぞえる。
「信用しないならもういい!」
男はそういってペソ札をふんだくってにげていった。
札束の一部を半分に折って、二重にかぞえていたのだ。こんな詐欺があるなんておもいもしなかった。
黒田さんは大学の5回生で、今回はネグロス島で餓死問題を取材してきた。パキスタンからアフガニスタンに密入国してゲリラを取材し、シリアやレバノンもたずねているという。
「アフガンゲリラにあうのは簡単だよ。首にカメラを2、3台ガチャガチャぶらさげて、国境をブラブラあるいていると『ジャーナリストならこっちの話をきいてくれ』ってゲリラの連中がよってくるよ」
海外旅行では、すごい人にばかりにあう。自分がやけに小さくおもえてしまう。
黒田さんとは3年後に地球の裏側で再会するのだけど、その話はまた、いずれ。
「きみ、売春宿をみたくない? ジャーナリストになりたいんだろ? 世の中はきれいごとじゃうごかないんだから、なんでも経験したほうがいいよ」
つれていかれたのは薄暗いバー。そこのおばちゃんが女の子を紹介して手数料をかせいでいる。
黒田さんは自分の財布をとりだして「やべ、たりねぇ」とつぶやいて、ぼくに手をあわせた。
「ごめん、50ドル、かしてくれる? きみもがんばってね」
そういって女の子と消えてしまった。
ぼくも勇をふるって女の子とともに畳2畳ほどのせまい部屋にはいった。
なにをどうしてよいかわからない。
「君の出身はどこ?」
「実家はどんな仕事をしてるの?」
……云々と質問攻めにしてしまう。ほとんどこたえてくれないが、ひとことだけつぶやいた。
「父は殺された」
ギョッとして言葉をうしない、上半身のシャツはぬいだのに、なにもしないまま時間切れ。ホッとしたような、がっかりのような、釈然としない気持ちで繁華街をぶらついてYHにもどった。
「おまえ、麻薬でもやってきたんか?」
4月上旬に帰国して京都にもどり、ボヘミアンの連中に旅の様子を報告した。
売春宿でなにもできなかった、というのはなさけないから、ちょっとだけ話を創作した。
「女の子からいろいろ話をきいていたら、内戦で父が殺されたっていって彼女が泣きだしちゃって、かわいそうになって、なにもできなかった……」
うそくさっ! これで信じてくれたんかなぁ。
それから、宮本さんや黒田さんからいわれたことを、自分の頭でかんがえたかのようにかたった。
「農協のおっさんたちのフィリピン買春ツアーとかはひどいとおもうけど、売春を悪ときめつけるのはうすっぺらな正義感だとおもうんや。売春でしか生きられない女性がいるのは事実やし、そういう子たちにじかにせっして現実に目をむけるべきとちゃうか?」
当時のボヘミアンで1カ月以上の海外旅行経験者はぼくとオオキしかいない。ほかの連中よりも「世界の現実」を知った気になって、ツルやコツボの正義感の「うすっぺらさ」を指摘した。
あつくるしい正義感のかたまりのようなコツボは軽蔑したような笑みをうかべて口をひらいた。
「なんやそれ。要はおまえがやりたかったってだけで、次にやるための理屈をこじつけたんやろ? なさけないやつやなぁ」
ツルはまじめな顔できいたあと、あわれみと心配がまざったような表情になった。
「おまえ、大丈夫か? へんな理屈を真実を発見したかのようにまくしたてるなんて、おかしいで。麻薬やってへんになったんちゃうか?」
旅からかえってしばらくは、同様の話をあちこちでしたけれど、ほとんどだれも共感してくれなかった。
宮本さんや黒田さんとおなじことをはなしているつもりなのに、なぜだろう?
大学の1年間でいろいろ体験してきた自負はある。でも「かたるべき中身」はできてきたんだろうか? まもなくその結果が顕在化することになる。
ちなみにコツボはこの例会を最後にボヘミアンをやめて別のサークルをつくることになった。
「男ばかりのむさくるしい集団じゃなくて、女の子もいる、もっと健全なサークルをつくりたい」
ボヘミアンでは、あつくるしい正義感を1年間発散しつづけたが、地がスケベだから男だけの世界に満足できなかったようだ。
「要するに、日ごろから女の子といっしょにあそびたい」ってことなんだな、と、ぼくらは理解した。
チェルノブイリより岡田有希子
フィリピンから帰国してまもない4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発の爆発事故がおきた。2011年の福島第一原発事故とならぶ原子力発電史上最悪の事故である。だが当時のぼくには、フィリピンの革命よりも印象がうすかった。それどころか4月8日の歌手・岡田有希子の自殺のほうがよほどショックだった。(つづく)