帰還難民がつくったマンゴーの里 グアテマラ

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 グアテマラの主な都市は標高1000メートルを超える高地にあるから涼しくてすごしやすい。そんな高地から南の太平洋に向けて路線バスで2時間も走ると、広大な平地がつづき、エアコンのない車内は蒸し風呂になる。サトウキビ農園と製糖工場、アブラヤシ、バナナのプランテーション(大農場)が広がり、緑のバナナを満載したトラックが行き交っている。

目次

樹木も生えないやせた大地に入植

 青い袋をかぶせられたバナナを横目に砂利道をたどっていくと、紫色のマンゴーが鈴なりの果樹園があった。さらに5分、木々の合間に家々が点在する集落が帰還難民のつくる「グアダルペ共同体」だった。
 メキシコに逃げていた難民131家族が、661ヘクタールの「ルピタ農園」を購入して1995年から96年にかけて入植した。2017年現在約1000人が暮らしている。
 かつて太平洋岸は綿花地帯だった。ノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウは幼いころ、高原のムラから太平洋岸の綿花農園に出稼ぎに来ていた。農薬による中毒で死亡する人も多かった。1970年代に入って綿花ブームが去ると、米国に牛肉を供給するための牧草地になった。牛に踏み固められた農園の土地はやせ、樹木はほとんど生えていなかった。
「私たちが1995年に来たころは日陰さえない緑の砂漠でした」
 難民時代に結成された女性組織マドレ・ティエラ(母なる大地)の代表ラケル・バスケス(44歳)は語る。

ラケルの台所 (2 - 2)

 ラケルはチキムラ県カモタンで生まれた。大工だった父ドミンゴ(75歳)は1976年、60家族で協同組合を結成して、ティカル遺跡に近いカリブ海岸のペテン地方の開拓に参加した。
 ジャングルにかこまれた辺境だが、自分の土地でトウモロコシやインゲン豆をつくり、牛や豚を飼い、大工時代よりも豊かな生活だった。
 だが1981年ごろから軍が出没しはじめる。「協同組合はゲリラの仲間だ」と決めつけ、食料を徴発した。軍に同郷の男がいて「早く逃げないと、次は殺されるぞ」と知らせてくれた。一緒に逃げた17家族が国境の川をメキシコ側にわたりおえてふりかえると、対岸に2000人ほどの兵士が到着し、「何もしないから帰ってこい」と叫びながら銃をかまえていた。

植林2万5000本、謎の果物アルメンドラ

 14年の難民生活を終えて95年にたどり着いたルピタ農園は牧草地で、たきぎにする木もなかった。
帰還民のリーダ-だったラケルの父ドミンゴが中心になって、2万5000本の木を植えた。土をやわらかくする効果がある豆をまいた。枯葉は燃やすのをやめて土に還元するようにした。20年を経て、多くの木々が育った。

アルメンドラのあんちゃん (2 - 5)

 直径20センチの巨樹の下でバイクの修理をしている若者に「これは何の木?」と尋ねると「アルメンドラ」という。苗木から4年間で大木に育ったという。
「果実はちょっと苦みがあるけど甘くておいしい。つぶして煎じて飲めば糖尿病に効く。種子は砕いてパンに入れるとおいしい」
 そんなすばらしい樹木があるのか、と感心していたら「スーパーにも売ってるよ」と言う。え? 辞書を引くとアーモンドだった。

土を豊かにする巨大マンゴ

マンゴー畑の集荷 (6 - 7)

 さらに、「土を豊かにする」と農業技術者が彼らに教えたのがマンゴとレモンだった。マンゴは幼木の時は水まきが必要だが、成木になれば放置しておける。大量の葉を落とし、それが肥料になる。2000年ごろから、大半の世帯が加入する協同組合が約60ヘクタールのマンゴ園を開いた。以前は現金収入源はゴマしかなかったが、今は、メロンほどの大きさに育つ品種「マンゴトミ」が稼ぎ頭に育ち、ルピタ農園は近隣で「マンゴの里」と呼ばれている。
 私が訪ねた5月はちょうど収穫期で、紫の実がたわわに実っていた。マンゴトミは1個で腹いっぱいになる。フーゴと呼ばれる品種は果汁が豊富だ。アマティーヨという品種は筋が多いけど味が濃い。

マラニョン (10 - 10)

 マンゴ園の隣の土地に植えられているパプリカに似た黄色い果物は「マラニョン」という。やわらかい実にかぶりつくと、果汁が豊富で飛び散るほど。ドリアンに似た独特の香りがある。ソラマメのような形の種子部分も食べられるそうだ。
 調べたらカシューナッツだった。果実部分は英語ではカシューアップルと呼ばれているらしい。

在来種の種子を保存

マリアの庭 (21 - 33)

 マリア・トランジト(57歳)はメキシコ国境に近いウェウェテナンゴ県クイルコで生まれた。父はサトウキビ農園の労働者で兄弟姉妹が11人もいたから、12歳でメキシコのコーヒー農園に出稼ぎして、14歳になると家政婦をしていた。
 23歳で結婚し、最初の子が妊娠5カ月のとき、当時住んでいたまちに軍隊が出没し、14,5歳の少年をトラックで強制的に徴兵しはじめた。夫のトマスは軍を怖れて夜は山で寝ていた。土鍋や食器が家にあるだけで「ゲリラにふるまうんだろ」と難詰された。「トマスはゲリラだ」と兵士が語っていたと聞いて、1982年にメキシコに逃げることにした。トマスの姪は翌年「ゲリラ」とされて軍に連行され、300人の兵士に暴行されて殺された。
 メキシコの難民キャンプでは、教会からヒヨコが配られ、ニワトリになるまで育てて売った。インゲン豆やコメ、トウモロコシも援助してくれた。
 92年にキャンプ内に、野菜栽培などを学ぶ女性グループが結成された。牛馬の糞を拾って砕き、種まき時の肥料に活用した。パン焼き窯もこしらえた。このグループが後に難民キャンプの女性たちが参加するマドレ・ティエラ(母なる大地)という組織に育った。
 帰国後2000年ごろからは、種子の保全にも取り組んでいる。
 たとえばトウモロコシは市場で高く売れる白い品種が主流になり、黒や黄色は栽培されなくなっていた。だが実は、黒い品種の方が栄養が豊富だ。全国の農民と交流するなかで、先祖伝来の種子の大切さに気づいたという。
 さらに、各地の農民からさまざまな種子を入手した。
 マリアの家の庭には、マンゴやマラニョン(カシューナッツ)、バナナ、アーモンドという果樹とともに、ヨモギに似たキステ、アモールセコ、エパソテ(アリタソウ)、モリンガ(ワサビノキ)といった15種類の薬草が植わっている。共同体全体では計62種類の薬草を育てているという。

マリアの庭guaiya (2 - 9)

 庭にはメキシコ人からゆずってもらったグアヤという果樹があった。梅の実ほどの果実の堅い殻をはずすと、種子のまわりに厚さ2ミリほどの半透明の果肉がある。ライムに似た酸味と、ライチのような食感だ。ムクロジ科の植物で、エルサルバドルなどではマモンと呼ばれている。8年前に植えたが6年間は一粒も実らなかった。
「切り倒してたきぎにしちゃうよ」とマリアが毒づいたら、昨年はじめて実をつけた。
「おかげで今年は大豊作。植物にも脅しがきいたんだね」
 マリアはうれしそうに半透明の実にかぶりついた。

プランテーションによる渇水と農薬被害

 1996年に131家族の難民がルピタ農園に入植したとき、80年代の戦争を逃れてきた国内避難民の共同体が点在する以外は、周囲には広大な牧草地と未利用の森しかなかった。共同体に樹木を植え、畑を耕し、10月から4月までつづく乾期は井戸水を汲み上げて野菜を育ててきた。
 ところが、たきぎを取っていた森や周囲の牧草地はこの10年余りで、サトウキビやアブラヤシ、パイナップル、バナナのプランテーションに変貌した。
 それとともに年々雨量が減ってきた。20年前は4月末から雨が降りはじめたのが、今は5月半ばになっても降らない。ここ数年は深さ5,6メートルの井戸が次々に涸れ、10メートル以上掘らなければならなくなった。海水が混じる井戸も増えてきた。
「プランテーションを開くため森を伐採したから雨が減り、大農場は深さ100メートルもの井戸から水を汲み上げてスプリンクラーで散水するから、地下水も枯渇してきたんです」とマリア。
 マドレ・ティエラ代表のラケルは「水がないから、乾期は家庭菜園もできなくなってきた。日々の生活に追われて環境問題まで見ようとしない人が多いけど、マドレティエラでは自然保護区の設定を求める運動もはじめました」。

バナナ農園 (3 - 5)

 彼女たちの共同体でも、バナナやパイナップルのプランテーションで働く若者が増えてきた。
 彼らはバイクで農場に通勤する。そのバイクは農場で購入する。「5年間でローンの返済が終わるころにはバイクが壊れるんです」とマドレ・ティエラの女性たち。バナナ農場などの労働者には農薬のせいかがん患者が多いとも指摘されている。
 共同体から6キロ離れたボリビアという集落は20年前は小さなムラだったが、今はプランテーションの労働者が住みつき、週末は飲み屋やディスコが不夜城のようににぎわう。
 売春も横行し、性病の流行が問題になっているという。(そんりさ164号、2018年)

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