能登2011~24④焼け野原の輪島朝市

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行きつけの漆器店も食堂も焼失

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五島屋

 2月11日、車で輪島市河井町の中心街にはいると7階建ての「五島屋」のビルが横倒しになっていた。隣の居酒屋「わじまんま」が下敷きになり、経営者の妻と娘が亡くなったという。何度かかよった居酒屋だった。

 海沿いの埋め立て地「マリンタウン」に車をおいて西へ歩いた。行きつけの喫茶店「しおん」はのこっている。だが50メートルも歩くと、空襲跡のような焼け野原がひろがった。阪神大震災のときの長田区の光景を思いだす。

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海側から
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朝市通り
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永井豪記念館

 輪島塗の皿に絵をえがかせてもらった工房も、「なつめの店小西」も、吉田漆器工房の「La Quarta」も「輪島キリモト本町店」も、中華料理の「香華園」も跡形もなく消え、「マジンガーZ」や「キューティーハニー」の原画や漫画本をたのしんだ「永井豪記念館」も黒焦げだ。バブル時代にたてられた宮殿スタイルの「イナチュウ美術館」だけが焼け野原にあやしげな姿をさらしている。

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ありし日の塗師の家

 明治時代の塗師屋の家を再生した「塗師の家」は、贅をこらした客間や仏間をそなえ、建築の専門家から「日本一美しい町屋」と評された。その家も灰燼に帰した。
 例年2月の朝市は、観光客が少ないから露店もまばらだが、輪島の魚にこだわる「おとみさん」の露店で鮮度抜群のタラを1匹購入し、半身は刺身、半身は昆布締めにしてもらった。別のおばさんからは1匹200円ほどの雌がに(香箱がに)を10匹買ってゆがいてたべた。あのときの朝市と焼け野原がおなじ場所だとはとても思えない。

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朝市通りの東端

 東のマリンタウン側から朝市通りにはいると、東側はかたむいた建物がのこっているが、西側半分が焼失していた。朝市通りの西のつきあたりから南(左)へちょっとはいった建物の電気のショートが発火原因だったという。
 1月1日は風はなかったが、がれきで消防車の到着がおくれた。消火栓はがれきに埋もれ、河原田川も隆起したせいか水がくみあげられない。さらに津波警報で避難を余儀なくされて消火がとどこおった。約240棟が焼け、焼失面積は東京ドームとほぼ同じ広さの約4万9000平方メートルにのぼった。

親友の家が倒壊

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 朝日新聞輪島支局とおなじ町内で「かど長」という食堂と製麺業をいとなんでいた福盛啓容(ひろやす)さん(62歳)は元日、一家総出で乗用車2台で高岡にむかっていた。のと里山海道の横田IC(七尾市中島町)ちかくではげしい揺れに襲われ。ICをおりた直後に第二波が襲い、今走ってきた背後の道路がくずれおちるのを目の当たりにした。
 その日は、ちかくの中学の避難所に1泊したが、甥が市役所職員、姪が看護師だから輪島にもどらなければならない。道路はあちこちで寸断されている。田んぼのなかの道などを迂回して、ふだん1時間の道のりを9時間かけて輪島にたどりついた。
 焼失した朝市通りには、輪島高校時代からの親友・畠中雅樹さん(61歳)がすんでいた。
 1月3日、畠中さんのいとこから「雅樹の家がつぶれるのを見た」と聞いた。畠中さんと母の三千代さん(86歳)の安否がわからない。1週間後、「人の骨が見つかった」と連絡をうけた。
 その場所を案内してもらった。
 朝市通りの西のつきあたりの「畠中金物店」。朝市通りはゆるやかな坂だから、凍結した日はしばしば店に車がつっこんだという。輪島にいたころ、私もこの店にたまに買いものにきていた。やさしい表情のおばあさんが店番をしていた。
 がれきのなかの焦げたスチールデスクは、畠中さんの仕事机だった。そこに花が供えられている。中庭のあたりには黒焦げの立木がある。一番奥の河原田川沿いのガレージの軽トラックは黒焦げで、窓ガラスはグニャグニャに溶けていた。

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窓ガラスまで溶けてしまった軽トラック

人影が消えた町内会

 朝日新聞の支局は、市役所の北200メートルほどの住宅街にあり、約20世帯でひとつの町内会をつくっていた。全壊した家もあったが、ちかくの合同庁舎に避難して全員無事だったという。
 地震直後は、町内会の防災倉庫にあったカセットコンロの発電機などが役にたった。モンベルからの支援物資は1月5日から6日にかけて奥能登にとどいた。防寒着や寝袋、携帯トイレといった物品は酷寒の避難生活でとりわけありがたがられた。

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福盛さん

 だが、水道復旧のめどがたたず、市職員や看護師がいる福盛さん一族以外は、みな輪島をはなれてしまった。福盛さんの自宅も斜めにかたむき「危険」という「応急危険度判定」の赤紙がはられている。ガレージの自動車を外にだして、ベッドとソファーを搬入し、バイクといっしょに寝泊まりしている。山小屋暮らしのようだ。
 輪島では一部のスーパーは再開し、炊き出しなどもおこなわれている。でも水は給水車だよりで、入浴は自衛隊の仮設風呂にしかない。洋式トイレにゴミ袋をしき、終わったあとに凝固剤をいれてかため「ごみ」としてだしている。高齢者にはきつい環境だ。

きりこをかついだ鳳至の町

 輪島が1年で一番もりあがるのは夏祭だった。輪島市中心部の4地区(海士町、河井町、鳳至町、輪島崎町)の夏祭りを総称して「輪島大祭」とよぶ。
 私は友人にさそわれて、鳳至町の住吉神社の祭りに参加させてもらっていた。
 午後4時すぎからビールや酒をのみ、暗くなると漆塗りのきりこ(巨大な燈籠)をかついで町中を巡行する。河原田川にかかる橋を全速力で疾走し、ビールをあおる。肩で息をしているあいだに、若い男女の数が減り、きりこが少しずつ重くなっていく。輪島の祭りは男女の恋をはぐくむ伝統的機能を今も果たしていたのだ。裸にハッピを着ると女の子にもてるのだという。0時すぎ、町内にもどると、すしやビール、地元「白藤酒造」のおいしい酒をふるまわれる。帰途、真っ暗な町に虫の声がひびき、ひんやりした風に秋の訪れをかんじた。
 そんな記憶がきざまれた鳳至町と、その北側の海士町・輪島崎町を歩くと目もあてられない光景がひろがっていた。

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白藤酒造前をきりこが巡行=2013年
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1階がつぶれた白藤酒造

 下見板張りの落ち着いた家々があちこちで倒壊している。「白藤酒造」は1階部分がつぶれた。国登録有形文化財の大崎漆器店は形はたもっているが、正面が青いシートにおおわれている。大崎漆器店では蒔絵入りのお椀をつくってもらったのを思いだす。

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 輪島港は、ずらりとならぶ漁船は一見、無事なようにみえる。だが、水深3,4メートルあったのが、海底が最大2メートル隆起し、200隻の船は港外にでられなくなってしまった。2月16日から海底を浚渫する工事がはじまった。

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隆起で水深が浅くなり、動けなくなった漁船

「輪島はぜったい復活します」

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 河井町の重蔵神社にはモンゴルのパオが2つたてられている。骨組みを組み立てて分厚いウレタンのようなものでおおうだけだから1日で完成するらしい。名古屋の大学の先生が支援者の宿泊場所などとして提供した。
 神社のわきの「輪島工房長屋」では、輪島唯一のフランス料理店「ラトリエ・ドゥ・ノト」の池端隼也(としや)さんや、輪島唯一のショットバー「セブンアイルズ」の田辺和久さんらが炊き出しをしている。輪島にすんでいたころ、セブンアイルズには3日に1度はかよっていた。

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セブンアイルズの田辺さん
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2022年のセブンアイルズ

「水道がとおってしばらくしたら、店をひらきますからきてください。輪島は絶対復活します」と田辺さん。
 明治までの朝市は四と九のつく月6日の「市日」にひらかれていた。輪島の中心街の河井町は1910(明治43)年にも1100軒が全焼する大火でほぼ全滅したが復活し、大正(1912〜26)ごろから毎日朝市がひらかれるようになった。
 3年後か4年後か、輪島の街が息を吹きかえし、きりこが乱舞するのをふたたび目にしたい。祭りが復活したとき、輪島はよみがえるのだと思う。(つづく)

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