虐殺の町の障害者運動と天然染料 サンティアゴ・アティトラン(グアテマラ)

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 標高3000メートル超の火山に囲まれる中米グアテマラのアティトラン湖は「世界一美しい」とも称されている。そのほとりにあるサンティアゴ・アティトランは、マヤの先住民族の大半が軍の恐怖におびえていた1990年に軍隊を追いだしたことで有名になった。25年ぶりに再訪し、車いすの男性の目を通して四半世紀の歩みをたどりなおしてみた。

目次

悲劇の地「平和公園」に

サンチアゴまで (6 - 8)
092アティトラン桟橋

 世界中の観光客が集まる湖畔の中心都市パナハチェルから船で30分、ゆるやかな斜面に広がるまちが見えてきた。25年前、湖畔の桟橋から市街地までは、だだっ広い原っぱの斜面を歩いた記憶がある(下の写真は1991年)。ところが上陸したその場所から、民芸品店やホテル、食堂が林立し、トゥクトゥク(三輪タクシー)がけたたましく走り回っている。

殺戮現場の公園まで (10 - 25)
サンティアゴアティトラン08

 徒歩10分ほどの白い教会は昔のままだが、土道はなくなり石畳で舗装されている。まちはずれの軍の駐屯地跡には、軍に殺された13人の名前と生年月日が刻まれた石碑が点在し「平和公園」になっている。(下は1991年)

軍の銃撃で13人犠牲に

 サンティアゴは1980年に軍の駐屯地が設けられて以来、停電で真っ暗になるたびに覆面の男が徘徊し、農民組織や教会のリーダーらの家に押し入って連れ去った。犠牲者は10年間で千人を超えたという。軍は夜間の外出を禁じていたから、覆面の男の正体はわからないが、だれもが軍人だと思っていた。
 1990年12月2日午後8時ごろ、マスクの男が1軒の家の扉をたたき、押し入ろうとした。住民は別の出口から逃げ出して大声で助けを呼んだ。隣人がすばやく集まり、男を捕まえてマスクをはぎ取った。
 男の仲間が駆けつけて空に向けて発砲し、さらに住民を撃った。逃げた男たちを追いかけると、軍の基地に逃げ込んだ。
 当時16歳だったホセ・ソソフ(42歳)は、教会の鐘が打ち鳴らされ、あちこちで叫び声をがあがるのを聞いて、中央公園に駆けつけた。数千人が郊外の駐屯地に向かった。話し合うために白い布を掲げていた。
 駐屯地に近づくと、軍のスピーカーは「われわれは問題を起こしたくない」とがなりたて、対話に応じない。さらに近づくと空に向けて発砲し、その後、地面に伏せた人々を撃ちはじめた。ホセは腰や尻に激痛がはしった。駐屯地の入口が開いて、懐中電灯をもった兵士が見まわるあいだ、死んだふりをしていた。
 いとこに背負われて逃げ、道路脇の大きな石の下に隠してもらった。目の前の道路は土砂崩れで救急車が通れず、午前4時まで発見してもらえなかった。
 当時、サンティアゴには病院はなかった。唯一の医師は「血清がなく輸血できない」と言い、船と車を乗り継いでソロラ市の病院まで運ばれることになった。搬送されて手術を受けたのは午後3時すぎ。医師は父親に「あすまで生きられれば命は助かるかも」と言った。このとき4人が搬送されたが、2人は息絶えた。駐屯地前で絶命した11人を含めて計13人が犠牲となった。
 事件は国内外のメディアに取りあげられ、大統領も陳謝し、軍はサンティアゴから撤退した。その後も軍は何度か侵入を企てたが、そのたびに鐘を打ち鳴らして住民が座り込んで阻止した。

車いす、8年間こもった家

ADISAのJOSE (9 - 17)

 ソロラ市の病院で一命を取り留めたホセは「グアテマラではこれ以上治療できない。一生寝たきりで、座ることもできない」と宣告された。
 悲嘆に暮れていたとき、米国の人類学者が、事件の状況を聞きに来た。彼は各地の虐殺犠牲者が埋められた「秘密墓地」発掘に携わっていた。そして「アメリカで治療を受けてみないか」と提案した。
 2カ月後、米国に渡り、手術とリハビリで1年余り滞在した。帰国すると、家に車いすが用意されていた。

 家のなかの段差はスロープを設けたが、当時のサンティアゴのまちは土道ばかり(写真下=1991年)。車いすで歩く人は皆無だった。ホセも8年間一歩も外出せず、「なぜこんなことになったんだ」と毎晩のように泣いて暮らし、体重は100キロを超え、糖尿病も発症した。

092アティトラン子ども6人

障害者団体600人が結集

ADISA紙細工 (8 - 25)

 そんなある日、友人に誘われて外出してみた。さらに、重度障害者の娘を持つ男性が、障害者団体づくりを呼びかけ、ホセも参加することにした。それが 「障害者とその家族と友人の協会」(ADISA)だった。
 軍が撤退してまちの活気がもどり、1996年の内戦終結でサンティアゴも急速に発展した。ホセの家の前の道路も舗装された。
 当時、障害者の多くは家に閉じ込められていた。車いすで歩くホセは「かわいそうに。罰が当たったんだよ」「恥ずかしくないのかね」と陰口をたたかれた。そのたびに「見るだけでなく、僕の能力を示すために話を聞いてくれ」「欲しいのはその機会なんだ」と訴えつづけた。
 ADISAには約600人の会員がいる。その6%ほどはホセのような内戦の犠牲者という。
 ADISAは、障害がある子らが読み書きや算数を習う学校や、民芸品をつくる工房も営む。一般店舗に卸す紙袋が稼ぎ頭だが、古紙でつくるイヤリングや腕輪などの装飾品も人気という。道端のビニール袋を拾い集めて財布や買い物袋に加工するメンバーもいる。
「アティトラン湖という大自然にあるまちだから、環境問題も活動の柱にしています」と、担当のサルバドール・メンドサ(25歳)は語る。

 ホセは大学の教員養成課程で学ぶ学生でもある。「このまちではじめて車いすで歩き、今は差別も薄れて普通に暮らせるようになった。今度は障害者で初の教師になって、障害があっても尊厳をもって生きる実例を示したい。サンティアゴがグアテマラの平和の先駆者になったように」

かつての青年教師は監獄に

 ホセと話していて、事件の1年後に訪れた際に案内してくれた、私と同年代のフェリペ・ケフを思い出した。たしかホセの家の近所に住んでいたはずだ。
 フェリペは当時24歳で大学に通い、「以前は外国人と会っても、軍が怖くて本当のことは話せなかった。今はだれにでもしゃべれる。自由を実感しているよ」「読み書きもできない貧しい人を助ける弁護士になりたい」と語っていた。
 彼の消息を尋ねると「刑務所にいるよ」とホセは言った。教師だったが、数年前に女生徒に対する暴行事件を起こしたのだという。
 まじめで繊細な若者だったはずだが……。思わずため息をついた。

天然染色の復活

コチニルのサボテン (6 - 9)

 アティトラン湖の村々には、それぞれデザインの異なる織物が受け継がれている。だが、先祖代々受け継いできた天然染色の技術は、化学染料の普及によって失われしまった。日本人の専門家の指導で、そんな技術の復活に取り組むグループがある。
 エレーナ・チキバル・ケフ(41歳)はその女性グループのリーダーだ。
 殺戮事件のときは14歳。「発砲音があったら家から出るな」と言われていた。「お前はゲリラか」と軍人に問われ、スペイン語が理解できないから「はい」と答えて殺された知人もいた。
 戦争で被害を受けた女性の人権問題に16歳からかかわり、2008年には女性で唯一の市議会議員にもなった。
 女性の地位向上には、単に織物を売るだけでは足りない。新たな付加価値づくりを考えているとき、祖父母の時代に「天然染色」があったと聞いた。日本人の専門家に出会い、日本大使館の支援を受け、「天然染色研修センター」が2013年に完成した。
 センターの裏には、染めの素材となる植物が植えられている。穴を開けて吊ってあるウチワサボテンの葉には白いカビのようなものが生えている。カイガラムシという。指先でつぶすと紫の液体が指先にべったり付着した。コチニールだ(写真上)。グアテマラではつくられていないからペルーなどから輸入しているが、3年前から栽培をはじめた。そのほか10種類以上の植物を栽培している。
「天然染料は環境にも健康にもよい。失ったものを取りもどす試みです」

イラモの木の実 (3 - 3)
コチニル3色 (1 - 2)

 エレーナらのグループは今、戦争の記憶を残すプロジェクトも計画している。犠牲者の家族の証言を集めて副読本をつくり、学校に配布する。事件のあった「平和公園」には、事件だけではなくマヤの文化・伝統も紹介する資料館を建てたいという。
「あの事件からすべてがはじまった。戦争の記憶を忘れてはいけない」
 その手本は、JICAの研修で訪れた広島の原爆資料館なのだそうだ。

禁酒の町は平穏の町

祭りの行列 (15 - 23)

 夕食時、港の近くの食堂に入った。テラピアというずんぐりした淡水魚の料理を頼んだ。「ブルーギルやブラックバスの料理もあるよ」と店のおやじ。アティトラン湖の環境も悪化しているようだ。魚料理を楽しむためビールを注文したら「アルコールはない」と言う。
 食後に雑貨屋に行くと「アルコールは限られた店でしか売ってないよ。ここの住民は飲んで騒ぐのはきらいなんだ」。ホテルの従業員も「ビールを出す店が少ないからトランキーロ(平穏)でけんかもない」と言った。禁酒の店が多いのは、プロテスタントの信者が多いためらしい。
 禁酒を余儀なくされたのは残念だけど、殺戮事件の現場が「平穏」を誇るまちになっていることが感慨深かった。(写真は祭りの行列)
(初出は日本ラテンアメリカ協力ネットワークRECOM機関紙「そんりさ」、2017)

(注)サンティアゴ・アティトランの障がい者運動のリーダー、ホセ・ソコフは2020年に糖尿病で亡くなりました。

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