能登2011〜24 8カ月後の豪雨

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団結のムラをおそった濁流

㊤2012年、㊥2024年5月、㊦豪雨後の2024年10月。豪雨のすさまじさがわかる


 輪島市門前町深見は能登半島地震で孤立し大きな被害をうけた。だが、3キロ南の道下地区に仮設住宅ができると24軒が2次避難先からかえり、大規模半壊の人もふくめて「深見にすみつづける」と決意していた。そんな深見を9月21~22日、豪雨がおそった。
 水害の20日後にたずねると、道路に20数台の車がならび、ボランティアがせわしなく出入りしている。民家が軒をつらねる川の両岸をむすぶ橋は流失し、護岸はくずれ、家や納屋はがれきや泥におおわれている。
 六田貞子さんの家はぎりぎり無事だったが、26軒のうち浸水をまぬがれたのは5、6軒だけ。1.5メートルの高さまで水につかった家もあった。地震から数カ月かけて復活した電気や水道もまたとまった。
「うちがだめになった人はどうなるんやろーと思うと涙がとまらん。今は正直、深見にはきたくない。ボランティアさんがいろいろやってくれているけど、私ら年寄りにはなにもできんし……」
 多くの住民は、自宅の修理がおわるまで家財道具を納屋に保管していた。それらの納屋の多くが流されたり、泥におおわれたりした。
 10月10日、仮設住宅にいる24軒の住民は総会をひらいた。
「もうどうしようもない」
「すむつもりだったけど、もうええわ……」
 半壊以上の人からはあきらめの声があいついだ。「深見にのこる」とこたえたのは10軒だけだった。

 今回、輪島市では48時間降水量が500ミリを記録した。
 実は輪島市は、1956,58,59年にたてつづけに水害におそわれている。59年の水害では旧輪島市と旧門前町で30人が亡くなった。輪島の中心街には「水害水位表示塔」があり、3つの水害の水位がしるされている。今回の水位は130センチ前後(下から3番目)なのにたいし、59年は2メートル(時計のすぐ下)を超えていた

忘れられた過去の大水害

 次に、珠洲市の若山川の河口にある「ヘアーサロンはしもと」をたずねた。橋本弘明さんは店内でギターをつまびいていた。営業を再開したから髪を黒く染めている。
 橋本さんが小学生だった70年前、若山川は毎年氾濫するから、6月になると畳をはがして上にあげていた。水道がない時代だから手押しポンプで水をくみあげて泥にまみれた家をあらった。
 近所に建築中の家は水につかり、高台に避難させなかった自動車は水没した。
「浸水した場所は昔の洪水といっしょやったわ。ちょっと前までは『台風はこんし、地震はこんし、貧乏やけど珠洲はいいとこや』と言う人が多かった、昔から地震も津波もあったのに、何十年もないとわすれてしまうんやね」
 能登半島北端の禄剛崎をへて外浦側にまわると、海からせりあがる山の斜面のあちこちが崩落している。「鯉のぼりの川渡し」で知られていた大谷川沿いの道は膨大な土砂で埋まってしまった。5月に取材した仁江集落内の道も泥水でおおわれ、集会所の玄関には泥がこびりついている。 

苦しみを楽しむ


 輪島市町野町は元日の地震につづいて豪雨でも壊滅的な被害をうけた。くずれた土砂や倒木があちこちに山積みになっている。田畑は巨大な湖になり、町野の中心集落はほぼ全域が水没した。
 藤平朝雄さんがすむ曽々木海岸も、裏山の土砂がくずれて民家1軒をおしつぶした。電気も水道も電話もとまった。海岸には無数の流木が散乱していた。
「地震だけなら前を向けるかなぁと思ってきたけど、正月のふりだしにもどってしまった。56年すんでいるけど、こんな地震や豪雨ははじめて。今年はなぜ次々にひどいことがおきるんでしょうねぇ……」
 藤平さんも疲労のためか顔が青ざめている。
 4キロ南にある町野町で唯一のスーパー「もとや」は元日の地震後も営業してきたが、濁流におそわれた。それでも泥を掃除して復活をめざしている。
「2回も被害にあってもたちあがるんだから、無事だった私も、なんの力もない年寄りだけど、なにかせんならんと思いました」
 藤平さんは、能登の魅力を紹介するDVDや手作り冊子を友人たちに発信する準備をはじめた。
 そんなとき藤平さんのもとに、輪島市街の寺の住職から寺報がとどいた。
「どうして2度も大震災にあわなければならないのだろうと思いました。でも今はこう受け止めています……数千年に一度のありがたいご縁に出あわせていただきました」
 感動した藤平さんは返信した。
「どんなつらいことがあっても、きのうまでのことは明日への準備と思って進んでいきたい」
 そして私にこう言った。
「おなじ苦しいなら楽しんでやろうって思ってるんですよ」

 ナチスの強制収容所を生きぬいた精神科医ビクトル・フランクルを思いだした。
 過酷な収容所でも、最後のパンを他人にあたえる人がいたことから、悲惨な運命に見舞われても、その運命にたいしてどんな態度をとるかという人間の最後の自由をうばうことはできないとフランクルは確信し、「今・ここ」で最善をつくすことを説いた。
 二重災害という絶望的な状況で「苦しみを楽しむ」能登のやさしさと私にはだぶってみえた。

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