戦争による傷と「孤立」を克服
30歳代の生活改善普及員アンニバルのバイクに乗って、チランガ市の郊外にある集落を訪ねた。遠くまで山並みを見渡せる山上にある。
集会所には14,5人の女性と20人近い子どもがあつまり、チーズや肉をトルティーヤの生地ではさんだエルサルバドル名物「ププサ」を庭で焼いている。材料のトウモロコシやチーズ、キャベツ、ニンジンはみんなでもちよった。
2016年1月にサークル活動をはじめ、これまで11回の例会をかさねてきた。今回はじめて、軽食を食べる会をひらくことにした。
生活改善で何が変わったの? とみんなにたずねてみた。
「庭にマンゴやパパイヤなどの木を植えることをまなんだ」
「家を整理整頓すること」
「朝から晩まで働きづめだったけど、時間を工夫して午後に1時間の休憩をとれるようになった」……
さまざまな意見があったが、だれもがかならず「人と話すことが楽しい」「昔は近所の人とコミュニケーションがなかったが、今はみんなでつどえるようになった」と言った。
「田舎なのに、近所の人とのつきあいはなかったの?」と聞くと、
「余計なことをしゃべったら、何か起きるのではないかと怖かった」
55歳の女性は「戦争よ」とつけくわえた。
トロラ川より北は左翼ゲリラのFMLNが優勢だったが、爆撃や政府軍の侵入は日常茶飯事だった。
「ゲリラのコントロール下にある、というのは、政府軍をしめだしたわけではなく、侵入しても長時間滞在できないという意味。だから政府軍は民間人も殺して、出て行かせようとしたんだ」と元ゲリラの男性は説明した。
サークルは11回の例会をかさね、お互いに気持ちを語れるようになってきた。だからこそ今回の食事会が実現した。グループの力で戦争の傷を癒やしつつあったのだ。
日本の若妻の孤立を救ったミニ畑
日本の農村でも、1950年代や60年代、若妻たちは孤独だった。
15年前に会った愛媛県の女性を思い出した。家のことも田畑も義父母の言うがまま。自由はゼロ。そんなときに生活改善のグループに参加し、仲間と励ましあいながら、小さな畑だけまかせてもらった。その畑だけが自由を感じられる空間だった。30年後、畑でさまざまな野菜をつくった経験が直売所づくりにつながった。
日本とエルサルバドルの状況は異なるけれど、サークルメンバーの信頼感が基礎にあることは共通している。
普及員のアンニバルは元は牛飼いで、パソコンもつかえなかった。面接をうけて普及員に採用され、1時間半歩いて集落に通っていたが、仕事のため最近バイクを買った。
「生活改善は、自分自身もコミュニティの人たちと一緒に成長できる。長年チランガに住んでても知り合いは少なかったが、活動をはじめて友達だらけになった」と、うれしそうだ。
約20分の道中、バイクや歩行者とすれちがうたびにクラクションをならし、あいさつをかわしていた。(つづく)