茨木のり子の「詩のこころを読む」は長大な一篇の詩

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「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」で有名な茨木のり子は昔から好きだったが、彼女が好きな詩ってどんな詩なんだろう? そう思って手にとった。

 「生命」をめぐる詩にまずひきつけられる。
「空の世界からきて、空の世界にかえっていく。だれかに手を引かれて」
「天と地の精気が、ある日あるとき凝縮して、自分というものが結晶化される」……。
「生まれるってな、つらいし 死ぬってな、みすばらしいよーー んだから摑まえろよ ちっとばかし愛するってのを その間にな」
 こうやって生命を俯瞰する詩をよむと、どのように生まれて死んだとしても嘆くにおよばず、「今ここ」を生きればいいじゃないかと思える。
 生命とは、自分のなかに欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうことであるとうたい、弱くて何かが足りないからこそ人はつながっていける、という内容の詩があった。「敬虔な祈りの声のよう」と茨木は評価する。
 「子どものとき、季節は目の前に ひとつしか展開しなかった。今は見える 去年の菊……十年前の菊。遠くから まぼろしの花たちがあらわれ 今年の花を 連れ去ろうとしているのが見える……そうして別れる 私もまた何かの手にひかれて」
 石垣りんのこの詩は老いの豊かさと哀しみと命の不思議があふれている。
 「死の時には私が仰向かんことを!……せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!」という中原中也に対しては、「人間の意識層を100とすると、人はたいてい10%くらいの表面意識で暮らしていて、あとの90%は未開発のまま死ぬという説があり、私もそうじゃないかと思っているのですが、そのことのこわさ、もったいなさを、中原中也はカンでつかみとって人々へ投げかけている」としるす。

 茨木がかかげる「よい詩」の定義は明確で辛辣だ。
・照れくさかったり、むずがゆくなるのはダメな詩。
・感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできない。「死んでいる詩」 は、感情の耕しかたがたりない。
・言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえない。じりじりと滑走路をすべっただけでおしまい、という詩がなんと多いことか。
・浄化作用(カタルシス)を与えてくれるかくれないかが芸術か否かの分かれ目。
・詩歌は喜怒哀楽の表出だが、日本の詩歌は「哀」において多くの傑作を生み、「喜」や「楽」にも見るべきものがあるが、「怒」が非常に弱い。金子光晴は例外的に「怒」を表現した。

 「遠くのできごとに人はやさしい 近くのできごとに人はだまりこむ 遠くのできごとに人はうつくしく怒る 近くのできごとに人は新聞紙と同じ声をあげる」という詩は「怒」の典型例だ。
 この詩を目にして、西成で少年たちが野宿者を襲撃した事件を思いだした。襲撃した高校生を知る先生を取材すると、彼はため息をつきながら言った。
「この子たち自身が貧しくてつらい家庭なんです。芦屋のお金持ちの高校生は『ホームレスの人たちがかわいそう』って素直に同情するんでしょうねぇ……」 
 茨木の「自分の感性ぐらい……」もまた「怒」をみごとに昇華している。彼女こそ典型的な「怒」の詩人でもある。
 茨木はこの本で、多くの作品をとりあげることで、彼女自身の喜怒哀楽を縦横に表現している。この本じたいが長大な一篇の詩なのだ。(岩波ジュニア新書)

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