飛騨高山を後にして、東にむかった。別所温泉にむかう途中、「無言館」をみつけた。あっ、こんなところにあったんだ……。
木立のなかにコンクリートうちっぱなしの建物がたっている。正面の小さな扉をはいると、なかは十字型になっており、ひんやりとした空気が満ちている。
戦争で亡くなった美術学校の若者の絵をあつめている。
この厳粛な場でなにをかんじられるのか、かんじるべきなのか……入館前は重圧をかんじた。そもそも未熟な若者の絵になにかをかんじられるのだろうか?
「……美術学校卒。1923年、福島県郡山市生まれ。1943年に徴兵され、1944年2月、フィリピンルソン島で戦病死」といった略歴がしるされている。陳列ケースには、彼らの日記や肉親にあてたがきなどがならぶ。「妹思いだった」とか「この絵の具をつかいきりたいと出征直前まで画布にむかっていた」とか、わずかな説明だけで、それぞれの若者のおもいがたちあがる。
作品は、正装した妹や裸の妻を描いたもの、古い町並みや上高地の山々をえがいたもの……と、対象もテーマもさまざまだ。巧拙はあるが、みずみずしい感性が印象的だ。
こういうみずみずしさ、繊細さをたたきつぶしたのが天皇制国家であり戦争だった。殺されたのは人間だけでなく、感性そのものだった。
美術への志を断たれた若者の作品をとおして、戦争の悲惨さをつたえることを目的とした施設……と思っていた。
でも実際に作品をみたとき、そうではない、とおもった。
圧倒的にみずみずしい感性がそこにある。人間のやさしさや愛をブルドーザーのようにおしつぶす軍事国家のもとでも、彼らは自由な感性を死ぬまでもちつづけていた。
ここは「悲惨」をつたえる場ではない。あの時代でさえも人間らしい感性をもちつづけた人がいたことをしめす場なのだ。ナチスの強制収容所をいきぬいたフランクルのコトバをおもいだす。
「どんな運命に見舞われたとしても、その運命に対してどんな態度をとるかという人間の最後の自由をうばうことはできない」
亡くなった美学生たちは、最後の自由をうばわれなかった。
無言館のコンクリート打ちっぱなしの建物は、これまで雑誌でみたイメージは石の棺桶だった。
でも実際にたずねると、無言館は「石棺」ではなかった。むしろ、絶望の時代さえもいきのこった命のかがやきをかんじられる希望の館だとかんじた。
別所温泉では、北向観音を参拝し、石湯という公衆浴場で、源泉かけ流しの湯であたたまった。